晦の夕月夜 八百比丘尼の庵で仕事をしながら、樹は一つ息を吐いて立ち上がった。 障子を開け空を見ると、薄らと朱くなり始めていた。 (もう陽が暮れ始めたか…きらを送ってやらねばな) 戦いと樹の中の憎しみが終わりを告げてから、二月以上が過ぎた。 それからきらは、毎日という訳にはいかないが可能な限り比丘尼の庵を、樹を訪ねている。 冬休みに入ってからはほぼ毎日と言ってもいいだろう。 二人で他愛もない話をしながら過ごし、日が暮れる前にきらを送る。 今日の様に樹が仕事をしている時は、きらは邪魔にならないようにと庵の周囲を散策している。 庵の周囲は決して安全とは言えない道も多いため、本心では心配だがきらが冗談めかして「樹さんが構ってくれないからでしょ!」と言われ、また散策を楽しんでいるため認めざるを得なかったのだ。 ただし、何度も注意するよう言い含めているが。 (さて、今日はどこに…危険な場所に行っていなければ良いが) 靴を履き外に出た樹が物思いにふける。 「樹さん!!」 樹の心配を分かってはいるのだろうが、酌んではくれない少女が全速力で走ってきて、樹の目前で止まりしばし肩で息をする。 走ったためか、或いは寒さのせいか赤くなった頬に触れれば案の定、冷たかった。 「こんなに体を冷やして…何か温かい飲み物を用意する」 頬に添えていた手で、やはり冷たいきらの手をとり、庵の中へ導こうとする。 「っ、樹、さん、ちょっこっち来て!」 言うなり、逆に樹の手を引き、きらは走り出した。 ・ 夕陽の朱が地に近づき、夜空の藍が降り始めた空が眼前に広がる。 秋のそれの様に鮮やかではないが、穏やかで淡い冬の夕映え。 樹にとってはきらを送る際に二人で見る空、暖かいがどこか切ない色だ。 知らずきらと重ねた手に力がこもる。 「あーもう大分沈んじゃってる〜。やっぱり冬は日が暮れるのが早いなぁ」 「お前も早く山を下りねば遅くなる、戻るぞ」 「いいの、今日はちょっと遅くなるかもってシスターに言ってきたもの」 「だが…」 「あのねぇ!私は、ここで、樹さんと二人で、夕焼けが見たかったの!!」 「何故」 そう問えばきらは、頬を赤に染めたままそっぽを向く。 その頬の赤さは冬の淡い夕陽ではなり得ないものであり、仕種から寒さのせいだけではないことが窺えた。 「今年の…樹さんと逢えた年の最後の夕焼け、だもん…」 「きら…」 「!樹さん!?」 後ろから抱き寄せれば、きらは驚いて逃れようとする。だが樹はそれを許さず強く抱きしめ囁きかける。 「お前の想いは分かった…だが、お前を凍えさせたくないという私の想いも理解してくれ」 「う…ん」 返事と共にきらの手が、自身を抱きしめる樹の腕に重ねられた。 しばし無言のまま淡い夕焼け空を見つめる。 最後の朱があと数分もせずに沈むだろうという時に、きらが樹に声をかけた。 「樹さんは、夕焼けが嫌いなの?」 「どうして、そう思う?」 「時々、悲しそうな顔してる、夕焼け見てる時」 「……昔、まだ血清の作り方を知らなかった頃、一族の者は陽が沈み、夜が来る度に獣に戻りそして去っていった。その頃の私は、夜が訪れるのが怖く、陽が沈むのが憎かった…」 「樹さん…」 「だが、今は…そうだな…寂しい、のだろうな」 「私がいるよ!それでも…寂しい?」 「お前がいるからこそ、だ。陽が沈めば、お前と別れねばならない。その想いが夕焼けを見る度に蘇ってしまうのだろう… ふふ、私も重症だな…まだお前といる時まで悲しげな顔をしてしまうとは…」 「……私も重症だよ。私も、樹さんと別れるの寂しいもん」 「そう、か…だが、お前と三度目の晦日の夕焼けを見る頃には寂しいとは思わなくなるだろう。私も、お前も」 「三度目って事は再来年?何で」 「その頃には、お前は卒業していて、私と共に暮らしている筈だ。私の…伴侶として」 「!な、な、な!?」 「ああ、話している間にすっかり陽も暮れたようだ。もう月が高いな」 抱いていた腕を緩めて未だ硬直しているきらの手を引き帰り道を歩き始める。 「帰るぞ、きら…今はまだ違う屋根の下に」 ・ 手を繋ぎ、互いの温もりを分かち合いながら。 後書き 本当は2006年12月31日に書き上げたかったんですが、間に合いませんでした… 発売後では始めて書いた水の旋律2小説です。 とりあえず樹さん何言ってんの!?って感じです(←言わせたのは誰でしょう) 姉から樹さんに斎宮好克っぽさが出てるよね、と言われました。 そして何より拘りたいのは……樹さんのいう温かい飲み物というのは、生姜湯に違いないということです!! 因みに執筆中のBGM(?)はAlone(遮那ver)と秋宵のためいきでした!! back |