御祭風





 空は青く、浮かぶ雲ははっきりとした輪郭を持っている。強い日射しの下で栄える緑の色は重く濃い。涼を求めてその陰に寄れば虫の声が強くなる。そんな夏らしさに溢れた季封は今、豊穣を祈願するための祭りの準備に賑わっていた。
 賑わいに背を向け、季封を囲う豊かな森に分け入ると、染み入るように蝉時雨が降り注いだ。穏やかな喧騒から離れるほどに、それは強くなる。けれど、夏の夕立が突然降り止むように、唐突に虫の音が鳴り止んだ。
 しゃん、と鈴の鳴る音がする。幾つもの小さな鈴の奏でる涼やかな音色は、ささやかに鼓膜を震わせる。それに惹かれて目を向ければ、目映いほどに白い千早と鮮やかな緋袴に身を包んだ娘が、一心に舞う姿があった。
 そのほっそりとした手首がしなやかに返る度に鈴がなり、指先まで真っ直ぐに伸ばし円を描くように廻れば、僅かに遅れて結われていない黒髪がさらりと後を追う。
 その姿は――所作も娘自身も――息を呑むほどに美しく、知らず、目と、心を奪われていた。
 最後に鈴をひとつ鳴らし、手にした扇を静かに閉じて、娘は神の前で畏まるように深く頭を垂れた。
「……空疎様?」
 再び降り出した蝉時雨の合間を縫うように、名を呼ぶ声が耳に届いた。
 立ち上がり面を上げた詞紀が、澄み渡った夜空のように曇りない黒い瞳で、真っ直ぐに空疎を見る。何も言葉を返さない空疎を不思議に思ったのか、どうかされたのですか、と小さく首を傾げながら詞紀は言った。声は聞こえなかったが、唇の動きでそうと分かる。
 蝉の声が五月蝿く、言葉を交わすには少し遠い。そう思い詞紀の目前まで来ると、髪が一筋乱れて頬にかかっているのに気付いた。
「……随分と、熱心なものだな」
 言いながらそっと髪を耳にかけてやる。一瞬だけ触れた頬は柔らかく、髪はさらりと指先から零れ落ちていった。詞紀は驚いたように目を見張り、それから少し頬を赤くしながら頷いた。
「え? ……ええ、季封の豊穣を祈るための大切な舞ですから。
 特に今年はお客様も大勢いらっしゃいますので、お目汚しにならないように、と」
「…客、か。確かに数だけは多いが、ほとんどが招かれざる客ではないか」
 空疎がため息混じりに言えば、詞紀は困ったように曖昧に笑う。
「ですが、せっかくのお祭りです。賑やかな方がカミ様方もお喜びになられるでしょうし、よろしいではないですか」
「既に賑やかという域を通り越しておるわ。我はあまり騒がしいのは好まぬ。それに…」
「それに?」
 その客人たちのせいで、季封は今少々面倒なことになっている。そう口には出さずに、空疎はその渦中にある人物をじっと見つめた。
 詞紀がきょとんとした顔をして小首を傾げている。何も知らぬ幼子のような仕種に、空疎は再びため息を吐いた。不思議そうに目をしばたたせる詞紀は、事実何も知らないのだから仕方のないことではあるが。
 何でもない、と言いかけた言葉は、突然響いた大きな水音に遮られる。詞紀は驚き弾かれたように、空疎は三度目にもなるため息を吐きながらゆっくりと音のした方――季封宮の方角だ――を見た。無論木々に遮られ直に様子を窺うことは叶わない。が、そのまま目を上へと向けた先に予想通りのものを認めて、空疎は思わず呻いた。
「……蛇…あの阿呆めが」
 よく晴れた青空には、ささやかながら虹がかかっていた。今朝から一粒の雨も降っていないのにも拘わらず、だ。
 十中八九、いや、十中十胡土前が負けが確定している囲碁を無理矢理なかったことにするために、地面から水を噴き出させたせいだろう。今頃偶然立った水柱のせいで勝負に水を差されたなどと白々しくも寒々しいことを言っているに違いない。その面の皮の厚さには呆れを通り越してある意味感心し、それに付き合わされているあの綾読というカミにはひたすら同情の念を禁じ得ない。
「……お二方とも楽しそうですし」
 よろしいのではないでしょうかと、取りなすように言う詞紀の言葉が何故か少し癇に障った。その気配が伝わったのか、詞紀が慌てたように言葉を継ぐ。
「そ、そう、それに…お久しぶりに会われたそうですから」
「久方ぶりの再会だろうと限度というものがあろう。あれは度を超している。
 …まったく、童のように騒ぎおって」
 日に何度周囲を水浸しにすれば済むつもりだ、と零すと、眉根を寄せていた詞紀がふと唇を綻ばせた。目顔のみで何だと問えば詞紀はそっと笑んだ口許を手で隠しながら答えた。
「風波様が到着されたときのことを思い出しまして」
「ほう…我と風波をあの阿呆どもを一緒にする気か?」
「いえ、そういう訳では……。
 でも…とても嬉しそうでしたから」
「まあ、風波は我を慕ってくれていたからな…。それは昔から変わらぬ」
 空疎の言葉に、詞紀が優しく目を細めてふわりと微笑んだ。
「空疎様も、ですよ」
 あんなに嬉しそうな空疎様は初めて見ました、と言う詞紀がどことなく寂しげに映り、そのようなはずがないと視線を逸らした。
「……なぜ、このようなところにいた?」
 奉納舞の練習ならば、季封宮ですればいいだろう、と言外に含ませながら問う。村の長たる詞紀が、わざわざ村はずれの森まで足を運ぶ必要はないはずだ。
「…………この奉納の舞や作法は、代々の玉依姫のみに伝えられます。私も、先代の玉依姫…母様から教えていただきました」
 空から虹が消えた頃に、詞紀は呟いた。
「楽の音はなく、玉依姫ただ一人だけで舞い、祈りを捧げるのがしきたりです。ですが…」
「………」
「ですが巫の渡を行う前の…最後の夏は、母と娘の二人で舞うのです。
 母様の舞う姿はとても綺麗で、幼い頃からずっと憧れていました。だから、その母様と一緒に舞えることがとても嬉しかった」
 自らの幼き頃の想いを僅かに弾んだ口調で詞紀は話し、それから、けれど、と続ける。
「嬉しい反面、ちゃんと出来るのか不安もあって、中々覚えられず……とうとう、もう嫌だと駄々をこねてしまったんです。毎日毎日、お宮に籠もって舞の稽古ばかりするのは嫌だ、と」
「今の貴様からは想像もつかぬな」
 いつもの皮肉ではなく、ただ純粋にそう思った。無理矢理に背負わされたものすら、己を偽り殺してまで果たそうとしていた詞紀にも、そのような頃があったのかと。
 子供でしたから、とほんの少し早口で呟く詞紀にその頃を透かし見て、微笑ましいとさえ思えた。
「それで、貴様の母はその駄々っ子をどうしたのだ?」
「…どうしたと思いますか?」
 どこか悪戯げに訊き返す詞紀をちらりと横目で見て、愚問だなと呟いた。
「それが、貴様がここにいることの答えなのだろう、玉依姫」
 空疎の言葉に、その柔らかな笑みには似つかわしくない呼び名に、詞紀は少しだけ寂しげにはいと頷いた。


 夏であろうとひんやりとした空気が漂い、昼であろうと薄暗い蔵で、空疎は黙々と古書物を漁っていた。ヤタガラスの一族は学究の徒であり、空疎自身こうして書物に触れることは嫌いではない。だが、今古書物を繰る彼の表情は険しいものだった。
「兄上」
「何だ風波、何か分かったか?」
 呼びかけに顔を上げれば、風波が首を横に振る。
「いえ、残念ながら……せめて、呪いにかけられた本人に直に対面出来れば良いのですが」
 微かに顔を曇らせ呟く風波に、今度は空疎が首を横に振った。
「少なくともしばらくは無理だろう。玉依姫のあの様子ではな」
 詞紀は今、その身も心も幼い頃に戻ってしまっていた。招かれざる客の一人、道満の術のせい――正確には、術の失敗のせいだ。
 幸か不幸か、道満がかけようとした呪いは失敗した、それ自体は幸いと言っていいだろう。だが、失敗した呪術は思わぬ形で詞紀の身に降りかかり、解呪の術も分からなくなってしまった。
 そのために、術への造詣の深い空疎と風波は解呪の術を探し古書物を読み漁っていた。同じく呪を得手とする古嗣は、解呪の手がかりになるだろうと、道満から失敗した術の正体を聞き出そうとしているはずだ。
 風波の言う通り、本来であれば呪いをかけられた詞紀自身がいた方が良い。だが今の詞紀は空疎たちのことを覚えていない上に、幼い子供と変わらない。事実、詞紀はとても不安そうな顔をしていた。泣き出すことこそなかったが、見知らぬ者ばかりに囲まれて怯えていたのは明白だった。
 ひとまず今は、秋房が詞紀のお守りをしている。無論今の詞紀が大人の姿をした秋房のことを自らの幼なじみだと認識している訳ではないが、やはり幼い頃から共に過ごし、何より中身がさほど成長していないが故か、詞紀があまり怯えなかったからだ。
 その時の詞紀と秋房の様子――詞紀は秋房の後ろに隠れるようにして、その袖を握りしめていた――を思い出すと、微かに気分が苛立った。
「姫様ぁああっ!!」
 突然、蔵の戸が勢い良く開かれ、秋房が飛び込んでくる。少なからず驚いた二人には目もくれずに二、三度中を見回すと反転し走り出し――
「っうわぁああっ!?」
 数歩もしないうちに強烈な向かい風に転がされた。
「っ空疎! 貴様いったい何をする!?」
「五月蠅い、小僧。貴様こそ何をしている、玉依姫はどうした?」
「ぐっ…! そのそれは……」
「その姫を捜しているのですよ、空疎殿」
 無様に寝転んだ秋房を、冷え冷えと見下ろす空疎への答えは外からだった。
「玉依姫を捜している、とは?」
 風波の問いかけと、空疎の問う眼差しを受け、智則はその詳細を語った。
 曰く、庭で詞紀の遊び相手をしていた秋房は、急にカミに集られやっとの思いで抜け出したときには既に詞紀の姿はなかったということだ。秋房に集ったのは、祭りの気配に浮かれた他愛もないカミたちで、詞紀から供物――吉影から貰ったらしい菓子だ――を捧げられた見返りに詞紀の願いを聞き届けたようだ。
「つまりは玉依姫自らの意思で秋房殿を撒いたということですか」
「そしてそこの小僧は、年端もいかぬ小娘風情に出し抜かれたということか」
 如何に小さきカミであろうと、カミはカミだ。カミの恩恵を受ける季封の民が、荒御霊でもないカミを邪険に出来ないことは仕方のないことではあるが。
「それで? 玉依姫の行く先に心当たりはあるのか?」
「それは…」
「……恐らくは、卯紀様…母君を捜しておられるのだと思います」
「…何?」
「しかし、玉依姫の母君とは、先代の玉依姫のことでは…? ならば……」
 風波が言い辛そうに言葉を呑み込み、秋房と智則は沈痛な面持ちで頷いた。
「…今の姫様は、卯紀様が生きておられた頃の姫様なんだ」
 幼い姿の詞紀は、しきりに母がどこにいるのかを秋房に尋ねていたらしい。無邪気に、そして微かな不安を宿した瞳で問う詞紀に、真実を伝えることは出来ず、祭りの準備に追われているのだと秋房は嘘を吐いたという。
「……空疎殿、姫のことは私と秋房にお任せ下さい。今の姫が宮の外に出ることはないでしょうから、ご安心を」
 お二人は呪いを解く方法をお願いします、と言い置いて秋房を伴い智則は去っていった。その背を見送り、空疎も風波も再び古書物に向き直る。が、空疎は何かが引っかかっていた。


 ――かあさま、かあさま。
 詞紀は小さな身体で精一杯の大きな声を上げ、母を捜していた。その声は遥か頭上から降ってくる虫の声に掻き消され、遠くまでは届かない。時折、生い茂った草に隠れた樹の根につまずき転んでしまうこともあった。擦りむいた膝と掌がひりひりと痛むけれど、それでも立ち止まらなかった。
 きっと母様はこの先にいるはずだ、と思ったからだ。
 だって、約束をした。明日もまたここでお稽古をしましょうね、詞紀、と。
 母様と二人だけで交わした、お宮の誰にも、秋房と智則にだって内緒の約束。
 きっと母様は昨日と同じところで待ってくれているはずだ。
 だから、急がないと――
「かあさまっ…!?」
 走り出した足が樹の根に引っかかり、勢いのまま身体が宙に投げ出される。思わずぎゅっと目を瞑った詞紀の耳許で、強く風が捲いた。


 間に合ったか。
 咄嗟に風を操り、詞紀が地面に打ち付けられるのを防いだ空疎は小さく息を吐いた。そのまま風を利用して、ゆっくりとその小さな身体を地面の上に下ろしてやる。着地の音すらしないほどにそっと下ろされた詞紀は、両手を地につけたまま立ち上がろうとしない。
 確かに間に合ったはずだが。単に驚いて固まっているだけか、それともどこか怪我をしているのか。
 いつまでそうしているつもりだ、と口に出そうとし、止める。常の詞紀相手ならばいざ知らず、今の詞紀にかける言葉としては些か厳しいだろう。あの怯えていた様子を思い返せば、泣き出す可能性すらあり得る。
「……大丈夫か?」
 しばらく考えた末にそう声をかけた。小さな肩がびくりと震え、それから恐る恐るといった様子で詞紀は顔を上げた。
 空疎が見つけるまでにも幾度か転んでしまったのだろう。まだ幼くふっくらとした頬は、土で汚れていた。詞紀の顔をのぞき込むようにしゃがみ、掌で頬を拭ってやる。
「……っ」
 汚れの落ちた頬には、転んだときに負ったらしい掠り傷や、浅い切り傷があった。指が傷に障ったせいか、詞紀が痛そうに顔を歪ませるのを見て、口の中で治癒の術を唱えた。頬の傷が見る見るうちに消えていく。
「…他には?」
「え?」
「他に怪我はないか?」
「え…あ、あの」
 手を、と言いながら詞紀はその手を空疎の目の前に広げてみせた。相当派手に転んだのか、じわじわと血の滲む擦りむいた痕が痛々しい。
「後先考えずに走るからだ」
 喉元まで出かかった阿呆という言葉を呑み込むが、目許に険が滲むのは止められず、詞紀が怯えたように身を竦めた。それに構わずに掌に手をかざし、次いで膝も同様だろうと治癒の術を施してやった。
 他に痛むところはないな、と問えば詞紀はこくりと頷き、それから空疎を見上げた。先ほどより幾分怯えの晴れた顔で口を開く。
「あ、あの」
「何だ?」
「ありがとうございました……」
 そう言って、困ったように眉根を寄せる。理由にはすぐに思い至った。
「空疎尊、それが我の名だ」
「くうその…?」
 空疎の名を繰り返そうとした詞紀は、益々眉根を寄せて首を傾げた。まだ幼い詞紀には難しかったのだろう。空疎で構わんと言ってやれば、詞紀はほっとしたように、くうそさま、と口にした。
「ありがとうごさいました、くうそさま」
 立ち上がった詞紀が礼の言葉とともに頭を下げる。幼い頃から、こういう律儀なところは変わらないらしかった。
「くうそさまはカミさまなのですよね?」
 幼いとはいえ、少なからず巫女としての修行を修めている詞紀はそう尋ねてきた。怪我を治し、名を教えてやったことで大分警戒が和らいだようだ。是と頷けば、詞紀は好奇心いっぱいの顔で空疎を見つめた。
「なにをしにきふうにきたのですか?」
 おまつりをみにきたのですか、と舌足らずな調子で次から次に質問を投げかける姿は、どこにでもいる童と大差ない。
「いや……貴様を捜しに来たのだ、玉依姫」
 詞紀の大きな目が、驚いたようにさらに大きく丸く見開かれる。
 いくら玉依姫と言えど、空疎ほどに力あるカミと対面することなど滅多にないはずだ。のみならずそのカミに、自らを捜していた、などと言われれば驚いてしまうのは無理もないだろう。
「………い、ます」
 詞紀がその小さな拳を固く握りしめながら呟いた。
「ちがいます……わたしは、たまよりひめじゃありません…」
「…何?」
「たまよりひめは、かあさまです。だから、わたしは…たまよりひめじゃ、ない…です」
「母が玉依姫ならば、貴様は次代の…次の玉依姫になるのだろう。ならば――」
 貴様はやはり玉依姫だ、と告げようとした空疎の言葉を遮るように、詞紀が声を張り上げた。
「ちがい、ます…! っわたし、は…たまよりひめなんか、じゃ、っありま、せん…っ!!」
 悲痛な、悲鳴のような叫び声だった。詞紀は泣くまいと必死で堪えながら歯を食いしばっていた。
 その詞紀の様に、少なからず空疎は驚き、そして困惑していた。詞紀がこれほどまでに取り乱すとは思ってはいなかった。
 空疎を睨みつけるように見る目を逸らさずに見つめ返して、気付く。その瞳にあるのは、怒りなどではなく、ただただ怯えたいろがあった。空疎に対してではない、玉依姫という名への恐怖だ。
「……っ」
 空疎の見つめる先で、詞紀の目からぽろぽろと涙が零れ、詞紀は俯いた。その足下にひとつふたつと雫が落ち、地面を濡らしていく。
 詞紀は、今の詞紀は玉依姫になるということがどういうことか、それを真に理解している訳ではないのだろう。それでも、その名に科せられる業を、幼いながらに感じているのかも知れない。自らがそう呼ばれるとき、母が喪われることさえも――
 目の前にある、童らしい小さな頭に触れてそっと撫でる。押し殺した嗚咽が、しゃくりあげる声へと変わった。
「…ああ、そうだな。貴様は、玉依姫などではないな」
 蝉時雨に、泣き声に負けぬよう、しっかりと届くようにとゆっくりと語りかける。詞紀はその声に頷くこともせず、空疎の胸に飛び込み泣きじゃくる。空疎はただ雛鳥を守るように、深く胸に抱いた。
 どれだけ泣き続けたか、詞紀の声は少しずつ小さくなり、やがては安らかな寝息へと変わった。起こしてしまわぬよう気をつけながら抱き直せば、涙の跡でぐちゃぐちゃになった顔がよく見えた。随分とひどい顔だ、と苦笑しながらそっと頬を拭ってやる。
「貴様は玉依姫などではない。
 貴様のような、ただの…泣き虫な娘が玉依姫などであってたまるものか」
 そう繰り返す空疎の下へ、風が吹いた。風波からの、解呪の術が分かったという知らせだ。それに返しの風を送り、詞紀を腕に抱いたまま、立ち上がる。
「…貴様は玉依姫などではないぞ……詞紀」
 呟きは二人を包み込んだ風に散らされ、消えていった。
 腕の中の詞紀が笑った、気がしたのは、きっと願望なのだろう。


 泣き疲れた詞紀を季封宮に連れ帰り、すぐに解呪を術を施した――とは言い難かった。
 まず宮の心当たりを全て捜しても詞紀を見つけられなかった秋房が、詞紀が無事に発見されたことを涙を流さんばかりに喜び騒ぎ、五月蝿い、姫を起こすつもりか、と智則からはたかれた。次いで空疎の腕で眠る詞紀の頬の涙の跡に気付き、刀を抜こうとしたため、やむを得ず風で宮の外まで吹き飛ばした。
 その後、宮の者が解呪のために整えた寝所へと詞紀を運び、解呪の術を確認しに風波の元へ行こうとしたが、詞紀が空疎の袖を掴んで離そうとしなかったので、仕方なく風波を呼び出した。生真面目な風波は、兄上と夫婦となる方の寝所に立ち入るなど、弟と言えど許されないことです、と断固拒否したため室内と廊下で解呪について話すことになった。その折空疎は、夫婦となるのは事実とは言えこのように幼い姿の詞紀を自らの妻だと言われることに若干の抵抗を覚えていた。
 それらの後、無事に詞紀の呪いは解かれ、今は大人の姿で安らかな寝息を立てている。子供の姿のときに散々泣いたせいで目蓋が腫れてしまっている。そのほっそりとした手の内には空疎の袖が握りしめられていて、相変わらず身動きか取れない。仕方なしに、宮の者が用意した手拭いを――片袖を掴まれているので多少やりづらいが――桶の水で濡らしては目蓋を冷やしてやっている。
「……ん…くうそ、さま…?」
 丁度手拭いを濡らそうと目蓋の上からどかしたときに、詞紀が目を覚ました。ぼんやりとした、どこか舌足らずな声で空疎の名を呼ぶ。
「ようやく起きたか……気分はどうだ?」
「……少し、頭が痛い、です。思い切り、泣いた後のような…?」
 身を起こしながら詞紀は不思議そうに答え、空疎は頷いた。呪いの後遺症などはないようだな、と安堵の息を吐いた。何かあったのですか、と首を傾げる詞紀に、貴様が気にするようなことではないと返せば詞紀は諦めたように苦笑した。
「…夢を見ました。幼い頃の夢を」
 ふと詞紀が呟き、そして小さく首を横に振る。
「少し、違うかも知れません。
 夢の中で私はまだ七つの子供で、それは確かだと思います。一生懸命母様を捜していて……空疎様にお会いしたんです」
「…それで、どうした? 我に泣かされたでもしたか」
「いえ、そんな…! 私が勝手に泣き出しただけで、空疎様は慰めて下さいました。それに…」
「それに?」
「……空疎様が、呼んで下さった気がしたんです。詞紀、と」
「……っ何…?」
 思わず詞紀の顔を見つめる。が、その表情をとらえる間もなく、焦ったように顔を伏せてしまった。
「す、すみません…! 無論、夢だということは分かっています…」
 言い訳じみた言葉を必死で言い募る詞紀の手は、未だに空疎の袖を握りしめている。それは、自身が空疎の袖を掴んでいることに気付いてないが故か、それとも無意識に離したくないと思っているのか。
 今、詞紀はどのような顔をしている?それが無性に知りたくなり、顎に手をかけ仰のかせる。
「………っ」
 詞紀は空疎の袖を掴んでいるのとは逆の方の手と袖で、顔を隠そうとする。
「…詞紀」
 名を呼べば驚いたように詞紀は、空疎を見つめた。その頬は朱く染まっていた。瞳が潤んでいるように見えるのは、気のせいではないのだろう、否、そうであって欲しいと強く思った。
「詞紀」
「…は、い」
「貴様はどちらが良いのだ?」
 夢であって欲しいのか、現であって欲しいのか。
 玉依姫という役目か、詞紀という名か。
 答えは胸の中の、抱きしめた温もりだった。



後書き
 どうしても発売前に夏のシナリオ捏造小説を更新したかったのですが、本当にギリギリになりました(笑)
 因みにタイトルは”ごさい”と読みます。
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