花の風巻





 それは、晴れた日の午後のことだった。ここ数日、季封は暖かな日差しに恵まれ、そこかしこで生命が芽吹いていた。その気配を小さな窓の向こうに感じながら、詞紀はそっとため息を漏らした。
 文官たちが纏めてくれた季封の現状。それが記された書を一つ読み終わり、机の上に下ろす。内容はあまりはかばかしくはなく、外の晴れやかな陽気とは対照に、詞紀の瞳は憂いを帯び陰っていた。
 あの冬の、虚との戦いで生じた被害について書かれていた。季節が移り変わり、穏やかな春になったことで、悲劇の残滓は薄れているようにも見えた。
 けれど、未だ手を付けられず壊されたままの建物も多い。踏み荒らされ、血で穢された田畑は実りを結ぶことはない。何より、季封を守るために戦い、失われた人々の命は決して戻ることはない。
 爪痕は深く、傷が癒えるには長い長い時を要するだろう。ふっと冬の風が吹いたかのように心が冷えた。それは、自分にその長い道を歩くことが出来るのだろうかという不安だった。
 けれど、自分は一人ではない。多くの人々が支えてくれている。
 振り切るように首を横に振り、次の書に取り掛かろうとして思わず手が止まる。まだ読んでいないものは右に、読み終えたものは左に、と分けていたのだが、右側が綺麗に片付いている。確か、今手元にある書を取った時には右にも小さな山があったはずだが。
「智則」
 顔を上げて目が合った幼馴染の名を呼べば、彼は苦笑して頭を下げる。だがその腕に抱えたもの――詞紀が読もうと探していた書だ――を机に戻そうとはしなかった。どころか目線のみで詞紀の向かい側を示した後、もう一度頭を下げて退出してしまった。
 流れる水のように淀みない動きは、詞紀に声を掛ける間も、手を伸ばす間も与えなかった。呆然とする詞紀の耳に噛み殺したような笑い声が届いた。
「ものの見事にとられたものだな」
「どなたの差し金でしょうか」
 向かい側に座る人を恨めしげに見やる。が、その眼差しを向けられた人物は素知らぬ顔をしている。智則が誰の指示であのようなことをしたかは明白だというのに。
「先程の貴様は、狐につままれたような顔をしていたぞ」
「…狐ではなく、烏につままれたような心持でした」
「蛇のようなことを言うな」
 詞紀の抗議の眼差しなど全く堪えていない涼しげな様子に、ふいと横を向く。ややあって近付く足音にも顔を逸らし続ければ、すぐ傍で名を呼ばれた。ほんの少し、ごく僅かだが困ったような声に、振り向きたい衝動に駆られたが、意地で抑えつける。
「何を子供のような意地を張っている」
「………」
「そのようにふくれっ面をするな」
「………………」
 顎を取られ仰のかされても、目を合わせるつもりはない。瞼を閉ざしてまで夫に逆らおうとする強情な妻に、空疎はほうと目を細めた。面白い、そちらがそのつもりなら――
「この場に我と貴様しかいない時に、そのように目を閉ざすとは…」
 項に手を添え、逃げ道を塞ぐ。
「我を誘っているのか」
 吐息のような声で耳元に囁きかければ、面白いほどにびくりと震える。身を引いて逃げようとしても、首の後ろに添えられた掌がそれを許さず、詞紀はさらに強く目を瞑り小さくなった。最早意地を張っているわけでも、無論夫を誘っている訳でもなく、ただ羞恥で動けなくなってしまった妻の唇に息を吹きかける。あとほんの僅かに身を屈めれば、恥じらい震える花弁のようなそれを、その奥に潜む吐息と熱を我がものに出来る近さで空疎は動きを止めた。
 頬を朱く染め、睫を小刻みに震わせる、今にも泣き出してしまうのではないかと思わせる詞紀の顔に、書を読んでいた時の気負う様子はない。いつだとて他の為にと懸命な姿は、昔から好ましく思ってはいたが、さりとて思い詰めた表情を見過ごす訳にはいかない。本当に目の離せない、手間の掛かる妻だ。
 そう思い、優しく目を細めた空疎の手が意図せず緩む。その好機とも言える隙を、武を嗜む詞紀が見逃す筈もなく、思いっきり身体を引き空疎の手から逃げおおせた。が、逃れることに必死で、その後のことなど全く頭になかったらしい詞紀は体勢を崩し――
「…あ」
「全く…貴様は本当に手間の掛かる女だな」
「す、すみません空疎さ…!?」
「それとも…」
 危うく畳に打ち付けるところだった背を、腕で庇ってくれた人の顔を見上げながら、慌てて起き上がろうとした詞紀が驚きに動きを止める。背に回された腕とは逆の方の手が、畳に長い髪を散らす詞紀の顔の真横に置かれたからだ。
 そろりと横目で窺えば、大きな掌が自分を縫い止めるかのように地に着いている。次いで恐る恐る正面を向けば、優しいのに鋭い瞳をした空疎と目が合う。
「拙いながら、夫を誘っているつもりか」
 なあ、我が妻よ、と自分ひとりに囁かれた低い声に、頭の芯が燃えるかのように熱くなると共に、背筋に冷たいものが走るという、大変稀有な感覚を詞紀は味わった。


 抱き上げられ運ばれるというのは、時にふわふわと落ち着かない気分になる。それは、目を開けることも、自分がどこに連れて行かれようとしているのか、確かめることが出来ないが故かも知れないが。
 どうしてこのようなことになってしまったのだろうか。先のことを考えるのが怖くて、今の状況を忘れたくて、詞紀は心をほんの少し過去に飛ばした。
 いけません、このような処で。
 追い詰められた詞紀がやっとの思いで口にした言葉に、空疎は頷いてくれた。詰めていた息をほっと緩めたのも束の間、続く空疎の言葉に息が出来なくなった。
 確かに、このような処で、続きは出来ぬな。
 その言葉が終わると共に身体が浮き、夏瀬殿の一室から連れ出された。そのまま空疎は廊下を歩き、渡殿に出る。外の眩しさに詞紀は目を瞑り、恥ずかしさから再び開くことは出来なかった。
 そうして今に至る訳だが、逃れようにも自らを抱く空疎の腕の力は強く、暴れようにも手足は力が入らずただ震えるばかりだ。最早詞紀に出来るのは、この姿を誰にも見られないようにと祈るばかりだった。
「詞紀、下ろすぞ」
 どうやら目的の場所に着いてしまったらしい。とても長い間、空疎の腕の中に抱かれていたような気がする。緊張からか、足が震える詞紀に空疎は目を開けるように促した。



後書き
 空疎様、からかい過ぎです。
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