空疎は座したまま、眠る詞紀の顔を見つめていた。触れた手は常より熱く、その体調を物語っている。 季封の復興の為にと力を尽くす詞紀を支えながら、張り切り過ぎぬようにと気に掛けては来たが、中々に強情な妻は時に無理をしがちだ。流石に無理やりにでも休ませるべきかと考えていた矢先、熱を出し床に臥せることとなった。丁度花冷えの頃だったのも原因のひとつだろう。 なおも長として動こうとする詞紀に、手ずから調合した薬湯を与え、恢復するまで休むよう言い聞かせたのは明朝のことだった。そのまま空疎は寝所を後にし、再び妻を見舞ったのは月が高くなってからだった。 常の務めに加え、詞紀の抱えるものまで果たした今日は中々に多忙ではあったが、元より一族の頭領となるべく生まれ育った空疎にとってそう困難なことはなかった。そんな一日を振り返り、まったく思いも寄らぬことが起きたものだ、と空疎は笑みをもらした。 昼を一刻ほど過ぎた頃、秋房が夏瀬殿を訪れた。微かにする独特の匂い―薬湯の匂いだ―から、秋房が詞紀を見舞った後だと知れた。 「姫様のお加減は大分良くなられたようだ。明日にはいつも通り動かれるつもりだとおっしゃっていた」 「そうか」 智則をはじめとする文官達には、昼餉とともに休息を取るように命じた為すべて出払っておりとても静かだった。秋房の声以外では空疎が筆を動かす音しかしない。その手を休めることなく、短く相槌を打つ。体調はそう深刻ではないことは分かっていたし、詞紀がそう言い出すことも予想していた。ただそれを許すかどうかはまた別の問題ではあるが。 「…それと、空疎。姫様が貴様のことを心配していた」 寸の間の沈黙の後に発せられた言葉に、空疎は顔を上げ秋房を見た。彼にしては珍しく、どこか悔しげな、だがそれだけではないような複雑な顔をしていた。 「貴様が自分の分まで務めを果たそうとして、休息も取らずに働き詰めになるんじゃないかと心配しておられたのだ」 「まったく、病人の分際で何を…。 それで?我が妻から我に休め、とでも言付かったか?生憎カミである我は人である貴様ら程に休息を必要とはしない。で、あるからそのような心配は杞憂でしかないのだ。 戻って我が妻に伝えよ。余計な気を回すぐらいなら、己が身を休めることに専念せよ、とな」 ため息をひとつ吐いた後、澱みなく語られる言葉に秋房は奥歯を噛みしめた。姫様に対する暴言に怒った訳ではない。いや確かにせっかく姫様が心配して下さっているというのに、なんと羨まし、いやいやなんと不遜な、と思ったのも事実だが。 空疎は詞紀からの言伝だと思ったようだが、真実は少し異なる。詞紀は空疎のことを案じた後にほんの少し淋しげに微笑んで、こんなことを言えばきっと空疎様に叱られてしまうでしょうね、と呟いたのだった。いくらあの空疎でも姫様のありがたいお優しいお心遣いをそのように無碍には、と詞紀の為にも一応否定しようとすると詞紀は静かに首を横に振った。 果たして詞紀の言った通りとなった。空疎は詞紀の案じた通り一人休むことなく務めを果たしていたし、詞紀の心配を無用なものと言い切り―、そしてその瞳は言葉を裏切るかのように優しかった。 空疎様の厳しさは優しさだから、と詞紀は言っていた。 本当に姫様のおっしゃった通りだった、と秋房は目を一度閉じた。 「断る。俺だって季封の為にやらなくてはいけないことが山ほどあるんだ。何より姫様の一の忠臣であるこの俺が、姫様にそのような暴言をお伝えできる訳がないだろう!」 半ば睨み付けながら指を突き付けた。姫様を幸せにできる、姫様を幸せにしようとする男に、姫様の夫に。 そのまま返事を待たずに、背を向け足音を荒くして室を出て行く。 自分が代わりを務めるからお前が自分で言って来い、とまで言ってやろうかとも思ったが、止めた。どうせ貴様程度に我の代わりが務まるものか、とか馬鹿にされ鼻で笑われるのが関の山だ。何より、そこまで吹っ切ることはできなかった。 外に出ると少々肌寒くはあるが良い日和だった。整えられ、主と同じく美しい宮の庭の桜は蕾が綻び始め、きっと詞紀の具合が良くなる頃には見頃だろう。その時には皆で花見をして、智則を付き合わせて酒を飲もう、自棄酒だ。 きっと今年も桜は美しく、その下で見る詞紀の笑顔は晴れやかでより一層美しいだろう。思いを馳せた光景の中ですら、その傍らには当たり前な顔をした空疎がいるのが少し癪に障りはしたが。 去る間際、空疎が驚いたように目を見張っていたことを思い出して、珍しいものを見た、と秋房は笑った。 まさかあの小僧があのようなことを言い出すとはな、本当に思いも寄らぬことだ。 正確に言えば、あのような物言いをすれば秋房が噛み付いてくることは分かっていた。そういった意味では予想通りではある。 ただそこに込められた意思は空疎の予想とは大きくかけ離れていた。 ようやく詞紀の夫が誰かを認めたらしい。尤も、誰が認めようが、認めまいが関係はないのだが。 そう思いながらも空疎の口元に浮かんだ笑みは満足げなものだった。 人というのは、変われば変わるものだ。 僅かに繋いだ手に力を込める。詞紀が眠りに就く前に空疎に求めたことだった。最初は迷惑を掛けてしまった、と気に病むばかりだったが、病の時ぐらいは自分の身を第一にし、早く治すことを考えよ、と再三諭してようやく聞き出した願いだった。詞紀が眠るまで、という約束だったが手を離すつもりは毛頭なかった。 「詞紀。貴様は知らぬだろうが、以前貴様が熱にうなされていた夜も、我はこうして傍にいてやったのだぞ」 だがその心持ちはあの時とは天と地ほど差がある。 あの夜、詞紀の心の奥底にある願いをただ聴くことしか出来なかった。ただうわ言で助けてと繰り返すばかりの詞紀が、ただ居るだけで何もしてやれぬ自分が、ひたすらに苛立たしかった。 「今はこのささやかな甘えが、それを口にする貴様がただ愛しいばかりだ」 本当に、人のみならず、カミたる者も変われば変わるらしい。 かつて、この心には復讐のみが在った。 今、この心に在るのは己が妻を案ずる気持ちと慈しむ想いだった。 「ああ、そうだ。貴様が恢復したら、花見の宴を開くとしよう。我はあまり騒々しいのは好まぬが、まぁ蛇はそれなりに役に立っているし、小僧どもには酒を飲む口実を与えてやらねばな…。 だから大人しくして早く身体を癒すがいい」 何より、この季封の桜が咲き、散ってしまう前に、美しい世界を共に見よう、と眠る妻に優しく語り掛けた。 後書き ほんの少し、『小夜嵐』と繋がっている話です。微妙に対になるように、と思っていましたが…秋房の出番が多いですね(笑) back |