華衣





 少し遠くからする赤子の寝息を聞きながら、詞紀はゆっくりと針を動かしていた。
 怪我などしないよう。
 病気にならないよう。
 どうか健やかに。
 一針一針に想いを込めて縫う詞紀の口許にはやわらかな笑みが浮かび、唇からは歌がこぼれる。ゆったりとした手の動きに合わせて紡がれる詩のない節は、まるで子守唄のように優しい。
 たくさん笑って。
 ひとりで泣かないで。
 どうか、どうか幸せに。
 最後の一針を終えるとともに歌は自然に途切れた。長く糸を垂らしたまま膝の上に広げて針目を整える。
「出来たか?」
 少し離れたところに座り、詞紀の歌に合わせ優しく芙蓉を揺らしていた空疎が顔を上げ問いかける。それにはいと答えて、手早く針と糸をしまい詞紀は立ち上がった。
「ああ、ほら…そう急くな。走らずとも我らは逃げたりはせぬ」
「すみません。ですが、すぐにでもお見せしたくて…」
 ほんの数歩を歩く時すら惜しいと言わんばかりに足音を弾ませ駆け寄ってくる詞紀を、空疎は苦笑いをしながら咎める。それに素直に謝った詞紀は空疎の隣に腰を下ろし、いそいそと今し方縫い上げたばかりの衣を広げてみせた。
 愛らしくも華やかな柄の、針目も美しい初着――産土詣りに赤子に着せる晴れ着だ――にか、それを童のようにはしゃいだ様子で掲げる詞紀にか、あるいはその両方にか、空疎は優しげに目を細めた。
「…相変わらず見事なものだな」
「ありがとうございます」
 空疎に褒められたのが誇らしくて詞紀は益々嬉しげに笑った。けれど、だがな、と続けられた空疎の言葉にきょとんとした顔をした。
「だが、衣の良し悪しは見た目だけでは分からぬものだ。何より大事なのは着心地であろう?」
「…ふふ。はい、そうでございますね」
 微笑みながらも畏まって頷いた詞紀は二人の前に初着を広げた。赤子用の小さな布団に裏地を上にして丁寧に広げられたそれに、空疎はいとも優しげな仕種で腕に抱いた我が子を下ろした。詞紀が仰向けに寝かせた芙蓉の腕に袖を通していく。
 出来るだけそっと着付けたつもりだったが、どうやら起こしてしまったらしく芙蓉がぱちりと目を開けた。身を乗り出すようにして自身をのぞきこむ父母を見上げ、芙蓉はぱちくりとまばたきをする。愛娘の不思議そうな様子を見て空疎は小さく笑みをこぼした。
「どうかされたのですか?」
「いや、なに……本当に瓜二つだと思っただけだ」
「?」
「そのきょとんとした、呆けた 表情 かお が、だ」
 存外に穏やかな声で紡がれたからかいの言葉とともに伸ばされた手が、慈しむように優しく頬を撫でる。その掌の温もりは反発する気持ちや言葉をいとも容易くとかしてしまった。あとに残るのは僅かばかりの気恥ずかしさと、溢れるばかりの幸せだ。
 頬に集う熱を自覚しながら俯けば、先ほどきょとんとした表情が瓜二つだと言われた娘が、今は機嫌良さげに目を細めている。瞼の奥に見えるのは澄んだ菫色の瞳。 いつも優しく見つめてくれる瞳と同じ色だ。
「ふむ。どうやら我が娘も気に入ったらしいな」
 満足げにもらす父の言葉を肯定するように芙蓉は声を立て笑う。椛のような小さな手を宙へと伸ばす芙蓉を、詞紀はゆっくりと抱き上げた。いつものように、その無垢な顔がよく見えるようにと横に抱くのではなく、顎を肩に乗せさせ空疎に背を向けるような格好だ。耳許できゃっきゃっと笑いはしゃぐ声が愛おしくて、そっと頭を撫でた。
「……いかがでしょうか?」
 詞紀の問いかけに空疎は母の腕に抱かれた小さな背へと手を伸ばし、真っ白な糸で描かれた花を指先でなぞった。
「…ああ、美しいな。
 きっとこの子をあらゆる危難から守ってくれることだろう……」
 初着の背に子供を禍から守るためのお守りを刺繍する、背守りという風習だ。何をお守りとして縫うかは様々で、ただ子の無事な成長を願う想いを込めて縫われたということだけが変わらない。その想いを込めて詞紀が縫ったのは蓮の花――芙蓉だった。空疎が音を、詞紀が字を決めた、この子の名前だ。
「ええ、そうだと良いのですが……」
「お前が想いを込めて縫ったのだ。どのような禍だろうとこの子に近寄ることすら叶うまい。我が保証してやろう。
 ……それとも、貴様はこの我の言葉を疑うのか?」
「いいえ、そんな……。
 でも、ふふ…そうですね。空疎様にもご協力頂きましたものね」
 もちろん空疎が針と糸を手にした訳ではない。赤子の傍で針を使うのは危ないし、もし芙蓉が急に泣き出した時に慌てて針をどこかにやってしまっては大事だ、と詞紀が初着を縫っている間、芙蓉を見ていてくれたのだ。それも未だ産の忌みの明けない自分に代わり執務を引き受けてくれている傍らに、忙しい合間を縫ってだ。
「本当に、ありがとうございました。空疎様」
「なに、我が愛しき妻と子のため、当然のことをしたまで」
 礼など要らぬ、と笑んだ空疎の白い花を愛でる手に手を重ねふわりと詞紀は微笑んだ。それからどこか小鳥めいた仕種で小首を傾げてみせた。
「……少し、ほんの少しですが、意外ではありました。空疎様のことだから、自分がいるのだからお守りなどなくとも心配は無用だと言われるかもと思っておりましたので……」
 八咫烏の一族には背守りの風習はなく、空疎にとっては馴染みのないものだと聞いていたから尚のことだ。
「………」
「…空疎様?」
「我は、我と貴様の愛し子であるこの子を傷つける者を、何人たりと赦すつもりはない。何があろうと守り通してみせる。
 それは、貴様も同じ想いであろう?」
 強く真っ直ぐな瞳に詞紀は自然と居住まいを正し、迷いなく頷いた。何者をも貫き通すほどの強さを持った眼差しがふと和らいで、愛おしげに妻と子を見つめた。
「子を想う母の想いを無碍にするはずなかろう。それに……」
「それに?」
「貴様の想いこの子を守るのであれば、我が風はより多くの幸せをお前たちに運ぶことが出来よう」
「…ええ、空疎様。
 いつも、今も……」
「いつまでも、だ。詞紀」
 その言葉の終わりとともに耳許に聴こえた袖の羽風は、確かに幸せを詞紀たちにもとへと運び、温もりで包んでくれた。



後書き
 良い夫婦の日記念にどうにか滑り込ませることが出来ました。夫婦通り越して親子のお話ですが(笑)
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