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「姫様、お加減はどうですか?」 「ええ、随分と良いわ」 「吐き気などはございませんか?」 「大丈夫よ」 「では目眩などは?」 「それも大丈夫よ」 「では………………」 次から次になされる質問に正直に答えながら、詞紀はこっそりとため息を吐いた。数日前から何度となく繰り返される問い掛けは、日を追うごとに増えていっているような気がする。いや、気のせいではないだろう。事実今朝は書付を見ながら質問しているではないか。 自分ではもう随分と良くなっているつもりなのだが。ふと、貴様は己の身体の調子に無頓着過ぎる、と時に怒りながら、時に呆れながら言われたことがあるのを思い出す。 そう言えば、ここ数日は表に出ることもないので、鏡を見ていない。もしかしたら人からすれば、まだまだ恢復していないように見えるのかも知れない。 「…あの、私はそんなに良くない顔色をしているかしら?」 おずおずと不安げに訊く詞紀に、問われた女性は一度目を丸くしてから笑いながら首を横に振った。良かった、と安堵したように呟く詞紀に、内緒の話をするように、実は、と囁いた。 「智則様から訊いてくるよう言われたのです」 「智則が?」 意外さに詞紀は訊き返す。智則は玉依姫を陰ながら支える言蔵の者であり、何より詞紀の大切な幼馴染だ。彼が心配してくれることは嬉しいし、不思議には思わない。けれど―― 「秋房が…ではなくて?」 先程のような矢継ぎ早な質問をしそうなのは、むしろもう一人の方の幼馴染ではないだろうか。世話を頼んだこの女性を捕まえては、詞紀の様子がどうかを延々と尋ねている姿がありありと浮かぶ。そして智則はその隣で呆れたような顔をしているのだ。 床に伏したまま首を傾げながら、思わずといった様子で呟いた言葉に女性は堪え切れず噴き出した。 「姫様、そのようなことを言われては空疎様が不機嫌になってしまいますよ」 「え?」 「元は空疎様が、智則様に訊いてくるよう命じられたことだそうです。 お二人のことが気になって仕方ないのでしょう」 そう言って女性は温かな眼差しを向けた後、朝餉の支度のために室を出て行った。 「空疎様が………」 残された詞紀は夫の名を微笑んだ唇にそっとのせた。その名を口にするだけで胸の中が温かくなり、先ほどの話を思い出せばくすぐったいような心地になる。 最後に会ったとき、いつものように落ち着き払った様子で言葉を掛けてくれた。いつものように自分がうまく言葉に出来ない不安をすくい上げ、それをとかすように優しく撫でてくれた。 そのいつものように、が自分を安心させるためにしてくれたことだとすぐに分かり、彼の心遣いがとても嬉しかった。けれど、事細かに――まるで秋房のように――様子を尋ね、とても気に掛けてくれていることを聞いたときも、またとても嬉しくなった。 いったいどのような顔をして尋ねてくれたのだろう。やはり平生のように不敵な笑みを唇に刷いていたのだろうか、それともほんの少しでも落ち着かない顔をしていたのだろうか。もしそうなら、いやそうでなくても顔を見たいと、逢いたいと思った。 神産巣日神の御前で祝言を挙げてから、一日たりと顔を合わせない日はなかった――数日前までは。その、逢うことの叶わなかった日を、右の親指から指折り数えれば、左の親指で止まる。こうして改めて数えれば、たった、という日にちしか経っていないのが分かる。けれど、詞紀にとっては、まだ、であり、ようやく、だ。 「早く明日が来ないかしら………」 明日になれば、愛しい夫に逢える。それに―― 「あなたも早く父様に逢いたいでしょう?」 やわらかく包み込むように微笑んで、傍らの小さな温もりに語り掛けた。 「………………も問題なく、吐き気や目眩などもなく、顔色も随分と良くなり――」 朝、空疎の室を訪れた智則は、挨拶もそこそこに詞紀と子供の世話を任せた女性――産婆だ――から伝え聞いたことを報告していた。智則が来る前から既に起きて書を読んでいたらしい空疎は、机の前に座したまま半身をひねり報せを聴いている。 挨拶を省いたのは別段空疎のことを軽んじた訳ではない。確かに智則にとって仕えるべきはあくまでも玉依姫である詞紀だが、空疎はその夫だ。何より、彼は解放してくれたのだ。季封を因習から、詞紀を罪から――。 だから智則は深い感謝の念すら持って空疎に礼を尽くす。相変わらず空疎に噛み付くことの多い秋房も、心のどこかではその思いは持っていることだろう。尤も、秋房の馬鹿が付くほどの真っ直ぐさを空疎が面白がり、揶揄するのを止めないせいで反発しているという面もあるのだが。 そのようなことを考えながら話していると、ふと机上の開かれた書物が目に入る。思わずこぼれそうになった笑みを堪えようとして言葉に詰まると、空疎が怪訝な顔をして目線のみで続きを促した。まるで今朝、智則の挨拶を遮ったときのように。 「姫も御子も、健やかに過ごされているそうです」 あまりの量の多さ、内容の細かさに書き付けることすら必要になった問いの答えを全て伝え終え、そう締めくくった。 空疎はそうか、と呟いたきり興味を失ったかのように書に向き直る。その背に一度頭を下げて、智則は静かに部屋を辞した。 そのまま夏瀬殿の方へ向かおうとすると、京からの客人が歩いて来るのが見え足を止めた。 「古嗣殿、この度はまことにありがとうございました」 「…君や秋房をはじめとして、一体何人の人にそう言われたか分からないな。祈祷は陰陽師の領分、そこまで礼を言われることでもないさ」 「いえ、しかし…姫が無事に子を産まれ、御子共々障りがないのはやはり古嗣殿のお陰かと。 それにわざわざ京よりお越し頂いたこと、いくら感謝してもし足りません。姫からもそのような言葉を預かっておりますので」 出産は慶事、けれどまた穢れにも通じ、場合によっては命を落とすことさえある。だからこそ、祈祷によって穢れを祓い、母子ともに無事であるように祈願するのだ。 今までであれば季封にも術師がいた。が、皆虚との戦いで命を落としている。今季封にいる面々で確かな祓いの心得があるのは、詞紀と空疎、智則だけだった。 だが詞紀は出産に臨む母、父である空疎もまた物忌みをしなければならない身、智則とてその二人に代わり政を取り纏めることになる。 信濃守の伝手を頼ろうか、と相談しているときに、空疎が我にあてがあると言った。無論詞紀も智則も疑うことなく任せることにし、その数日後に古嗣から文が届いた。式神を用いて届けられたそれは、祝いの言葉と、祈祷はどうか自分に任せてほしいというものだった。 「はは、お姫様のことだ。明日には僕に直にお礼を言ってくれるだろう。あまりに何度もお礼を言われていると、却って気が引けてしまう。 折角美しい姫君から、花の笑顔を向けられお言葉を賜るというのに、それでは勿体ないからね」 秋房が聞けば煩く騒ぎ出しそうな、空疎が聞けば……どうなるかあまり考えたくはないような軽口に、智則はただ苦笑いする。それに気付いていないのか、それともあえて無視しているのか、古嗣は智則が来た方を見やり、楽しげに笑った。 「さて、美しい姫君を妻にしてややこも産まれた幸せ者は如何にお過ごしかな?」 明日が待ち遠しくて、さぞや落ち着かないだろう、と面白がる古嗣に智則は偽りなく答える。 「いえ、書を読まれたり政務の相談に乗って下さったり……とても静かに過ごしておいでです」 ただ、ここ数日ずっと同じ書物を開かれていることに気付かれていないようですが。 彼への感謝の証として、その言葉はそっと胸に伏せておいた。 ふと聞こえた泣き声に、書を捲る手を止め顔を上げる。数日前から朝な夕な聞こえてくるようになった赤子の、我が子の声だ。吉方を占って建てさせた産屋は空疎の籠もる室から少々隔たっている。にも関わらず、声は中々に大きな音として耳に届く。 騒々しいことはあまり好まない――もし仮に、秋房や胡土前が同程度の音を立て煩く騒ぐようなら、間違いなく吹き飛ばすだろう――が、今は気にならなかった。いや、正しくは気に障らなかった、だ。気にはなっている―― 赤子というのは腹が空いたり、何か不快に思うことがあればそれを訴えるために泣くものだ。ある意味、これだけの大声を出せるのは健やかである証拠とも言える。耳を澄ましても慌ただしい物音などは聞こえないので、我が妻や我が子に何かあった訳ではないのだろう。 ――などという思考を、泣き声が響く間中、自らに言い聞かせるように延々と繰り返すぐらいには。 声は徐々に小さくなり、ほどなくして止まった。五日前に比すれば泣き止むまでの時が幾分短くなっている。詞紀も多少は母としての心得が身に着いたといったところか。 一人満足げに頷き、ふと窓の外へ目をやる。四角く切り取られた空は見事な茜色に染まっていた。日が暮れきるまであと僅かだろうか、差し込む光に空疎の影も長く長く伸びる。今日という日を惜しむかのような残照に目を細めながら思う。 沈むのなら早く沈んでしまえ、そして待つ必要もないくらい速やかに昇ればいい、と。 そんな埒のない考えを打ち切るように書を閉じる。六日の間の時間を潰せるように蔵から十数冊を持ち出しておいたが、何の役にも立たなかった。いくら文字を目で追おうと頭に入らず、時は遅々として進まない。政の相談を持ち掛けられれば多少は早く過ぎるものだが、こちらに気を遣ってかあまり頼られることはなかった。全く余計な気を回してくれる。お陰でただ待つのみしかない、何とも落ち着かない日々を過ごす羽目になった。 「ようやく、か………」 明日になれば、妻と子に逢える。 七日目の夜に、無事に産まれたことを祝うとともに名付ける慣わしのため、まだ名のない我が子。代々の玉依姫の名は母が付けてきたという。 詞紀は、なんと名付けるのだろうか。 思い再び見上げた空には、ようやく宵闇が迫り始めていた。 「お久しぶりでございます、空疎様」 「ああ、久しいな、詞紀。 身体の具合は大丈夫か?」 「ふふ…ええ、私も、この子も、とても元気です」 思わず笑みをこぼした詞紀を、訝るように見る空疎の目を逸らすように、そっと腕に抱えた嬰児を傾けた。ご覧下さい、と促すまでもなく優しい瞳が注がれる。 「…面差しは貴様に似たようだな」 目や口の辺りが瓜二つだ、と慈しむように漏らされた言葉に、詞紀ははいと頷いた。子の顔を見た産婆から何度となく言われたことでもあるし、実際鏡に映した自分の顔と似ている、と思ったこともある。けれどそれを空疎の口から聞くと、不思議なくらい胸が温かくなった。 面映ゆさに俯いた先で、真っ白な産着にくるまれて眠る赤ん坊。まだ雪の積もる頃で寒いからと、頭まで布で包まれている。だけれど今日は晴れの日に相応しく、暖かな日差しに恵まれ春が訪れたかのような陽気だ。起こしてしまわぬように、と気を遣いながら、そっと頭の辺りの布を引き下げた。 「髪の色は空疎様譲りなのですよ。それに瞳の色も」 今は分かりませんが、と繋げた詞紀に、吐息のような声でああと呟いて、空疎は手を伸ばした。詞紀の面影を宿した目許を指先で撫で、ふっくらとした頬をあやすようにやわらかく押す。まだ萌え始めたばかりの蒼を指で梳いて、詞紀ごと腕の中に包み込んだ。 「…我と貴様の子だな」 「私とあなたの子です」 耳許に囁かれた声に詞紀もまた囁きを返し、額を合わせて小さく笑い合った。 決して妻と子を抱きつぶすことのないようにと、やわらかく回された腕がゆっくりと背を撫でる。それがまるで、ありがとうとよく頑張ったなという言葉のように思え、空疎の胸に頭を預けた。そうして目を閉じると、自分たちを優しく包む夫の鼓動と温もりと、腕の中の小さな命がより確かに感じられて、彼女はとても幸せだった。 どれくらいそうしていただろうか、ふと詞紀の胸に、この腕の幸せな重みを知ってもらいたいという願いが生まれる。 「空疎様」 「ん?」 「この子、抱かれてみませんか?」 「我が最愛の妻と子なら、既に我の腕の中だが?」 「その妻に、最愛の夫が子を抱いている姿を見せては下さいませんか?」 からかうように僅かに腕の力を強める空疎に負けじと詞紀も言う。ふ、と苦笑して力を抜いた空疎は身を離した後に、本当に言うようになったものだ、と小さくこぼした。 母とは強くなるものです、と微笑みを浮かべる詞紀に、眩しいものを見るように目を細めて手を差し出す。 「まだ首が据わっておりませんので、手で支えて上げて下さい」 「ああ…」 どこか恐々と、慎重で繊細な動きでゆっくりと赤子を受け取る。しっかりと子を腕に抱いて、彼は深く息を吐いた。 詞紀ですら小さいと思う赤ん坊は、空疎ならば片腕で抱えることが出来そうだ。そんな彼が、僅かにぎこちない、何よりも優しい両腕で赤子を抱く姿は可愛らしかった。胸がくすぐったくなるような、苦しくなるような、湧き上がる想いを堪えるようにそっと口許を押さえた詞紀を一瞥して、空疎は目を逸らした。腕の中の我が子の、詞紀が抱いていたときと変わらぬ愛らしい寝顔に視線を落とし呟く。 「赤子というのは泣くのが務めのようなものだ」 空疎の言葉に、詞紀は小さく頷いた。どこかで雨が落ちる音がした。 「だから我とて、我が子に泣かれることは覚悟していた」 「まあ…だから先ほどはあのように息を詰めていらしたのですか? でも、それは杞憂でございましたね」 そうっと覗き込めば、安らかに眠る無垢な顔。力強く温かな腕の中は、詞紀にとってそうであるように、とても安心出来る場所なのだろう。 「…ああ、全くだ。 我に必要だったのは、我が子ではなく、我が妻に泣かれる覚悟だったらしい」 「え?」 思いも寄らぬ言葉に瞬きをひとつ。ついでぽつりぽつりとやわらかな頬に雫がふたつ落ちた。 雨漏りだろうか、今日はよく晴れているというのに、大変、冷たさに驚いてしまうかも。慌てて赤子の上から降ってくる雨から庇うように身を乗り出して、袖で濡れてしまった頬を拭う。なのに後から後から雫は子供のあどけない顔を濡らす。 「詞紀、落ち着け」 「でも、でも…この子が濡れてしまいます。泣いてしまうかも」 こんなに幸せそうに眠っているのに、起こしてしまうのは、冷たいのは、可哀想、泣かないで。 「泣いているのは貴様だ、詞紀」 自分の頬に触れてみろ、と言われ、恐る恐る従うと確かに涙の流れた痕があった。どうして私は泣いているのだろうか。頬を押さえた手に新たに流れる涙を感じながら、不思議に思う。と、そんな泣いている自分を見守る眼差しに気付き、慌てて頭を振った。 「ち、違います。悲しくて泣いている訳ではないのです。嬉しくて、本当に嬉しくて」 父が子を、腕に抱く姿がこの目で見れるなんて。同じところに三人でいられるなんて。 それは、玉依姫を縛る掟で禁じられていたことだから。 「……貴様はまたひとつ、檻から踏み出したことを実感したのだ」 それが嬉しくて泣いているのだろう。 静かに想いをすくい上げてくれる言葉にただ頷いた。その度に涙がまた溢れる。 「母とは強くなるもの、なのだろう?」 詞紀の降らせる雨から庇うように子を胸に深く抱きながら、空疎は問う。優しさの中に、ほんの一滴のからかいを混ぜた言葉に詞紀はこくりと頷いた。 そう、強くなる、この子を守るためにも。そのためには、いつまでも泣いてはいられない。 「…ひとりで、だって」 泣きやまなくては。焦る思いで些か乱暴に目許を拳で擦る。いつも涙を拭ってくれていた空疎の手は、今は、これからは子を抱くためにあるのだから―― 「………空疎、様?」 だから、優しい唇に涙を拭われて、驚いて名を呼んだ。空疎は応えずに、まだ潤んだ目許に口付け、涙を吸う。 「全く、貴様は…。 貴様はこの子の母であるとともに、我の妻なのだぞ。なのに何故、ひとりで、などと世迷い言を」 我が子を腕に抱いたままで、呆れたように、怒ったように、拗ねたようにこぼす夫が可笑しくて、愛おしくて、詞紀はもう一度だけ、喜びの涙を流した。 詞紀が落ち着いた頃を見計らって、赤子は母の腕に返された。このまま抱いていては、いつ泣かれるか分からぬ、というのが空疎の言だが、詞紀はそうでしょうか、と首を傾げた。とても気持ちよさそうに眠っていた――空疎の、父の腕の中は余程落ち着くのか、自分が泣いてしまったときもぐずることはなかったのに。 僅かに赤くなった目で不思議そうにこちらを見る詞紀の、涙の痕の残る頬を掌で撫でながら、貴様がだ、と空疎は苦笑した。その、困ったような優しい瞳に俯き、眠る子の顔を見つめながら、詞紀は呟いた。 「…実は、空疎様にお願いしたいことがあるのです」 「何だ?」 やわらかく聞き返す声にそっと願いを口にする。 「………………」 「空疎様?」 沈黙に顔を上げれば、彼にしては珍しく驚いた顔をしていた。 「………我が、か?」 「はい」 お嫌ですか、と問えば、空疎は目を見張ったまま首を横に振る。 「だがそれは、代々の玉依姫の、母の役目であろう。本当に貴様はそれで良いのか?」 「はい。私は、この子の父である空疎様にこそ、お願いしたいのです。 どうか、この子の名を」 戸惑いのいろを隠せない様子で詞紀と子を見つめていたが、しばらくして微かな声で分かった、と頷いた。 小さな命を確かめるように空疎は手を伸ばし、頬に触れる前に椛のような手がその指を掴んだ。思うよりも強い懸命な力、初めて目が合った自身と同じ色の瞳に、心に浮き上がったままの音を紡ぐ。 ふよう、と。 「…ふよう……花の芙蓉、ですか?」 頭に浮かぶのは、たとえ泥の上だろうと天を目指し凛と咲く花の姿だ。 「いや、扶揺は風の名だ。強き、風の名……」 そこまで答えて、感傷が過ぎると頭を振った。風波尊や東風姫、自らの名である空疎尊のように、風にまつわるもの――空は風が何よりも自由に渡るところだ――を付けるのは、あくまでも八咫烏の一族の風習でしかない。子供に風の名を付ける必要が、その資格が、今の自分にはないだろう。別の名を、と言いかけたところで、やらわかに、ふようと呼び掛ける声と、それに応えるように楽しげに笑う声に遮られた。 「この子はこの名前が気に入ったようですね」 「…我が名付けるのではなかったか」 ほんの少し複雑そうな顔をする空疎に苦笑しながら、でもこんなに嬉しそうですから、と言うと、空疎もまた諦めたように息を吐いた。 「………確かにな」 愛おしげにどこか泣きそうな顔で妻と子の姿を見た後で、空疎は言った。字は、花の芙蓉をあてよう、と。 「よろしいのですか?」 「我と貴様の愛し子の名だ。我が音を、貴様が字を決めるのが公平だろう」 「ふふ…はい、ありがとうございます」 「それに、強き風の音と、美しき花を表す名だ。強く美しい娘には相応しかろう」 「…そのように育ってほしいから、ではなくてですか?」 強く美しくなることを疑っていないという口振りが可笑しくて、詞紀は首を傾げながら尋ねた。 「愚問だな。我と貴様の子だ。強く美しくなるのは必定だ」 なあ、芙蓉よ、と呼び掛ける父の声に無邪気に笑う娘と、いつもの笑みを浮かべた夫を困ったように見た後で、そっと口許を綻ばせ、娘の名を呼ぶ。 「芙蓉」 父様と、母様と、あなたと、みんなで、幸せになりましょう、と想いを込めて。 後書き 去年からずっと書きたかった話です。幸せになって欲しい…!という想いを込めて書きました。 back |