香風





 茹だるような夏が終わり、秋声が聞こえる頃、詞紀は床に臥せっていた。
 僅かに熱を持った身体に涼風が心地好い。壁代を避けた隙間から外を窺えば尾花や萩が目に入った。儚げに揺れるその姿が寂しさを誘うのは爽籟のせいだろうか。
 そんなことを考えていると、ふと風のものではない音が耳に届く。とても静かな落ち着いた足音だ。
「…智則?」
 臥したまま発した問い掛けにいらえはなく、代わりに姿を見せたのは――
「………空疎様」
「褥で夫以外の名を口にするとはな。貴様は我が妻となる女だという自覚はあるのか」
「申し訳、ありません…」
 まだ重い身体を起こし、慌てて自らの失言を詫びる。見下す険を孕んだ眼差しから目を逸らすように頭を下げた。
「儀式の後に倒れたそうだな」
「はい」
 短く答え、一層頭を下げる。儀式――御魂鎮の儀――を行って倒れるなど、玉依姫として不甲斐ないと思われても仕方がない。智則は夏の疲れが出たのでしょう、と言ってはくれたが、己の不摂生だと言われれば否定は出来ない。先の失言やこのことで、よもや婚約を解消するとは言われまいが、これ以上の不興を買う訳にもいかない。何か重ねて言うべきだろうか、それともただ黙し頭を垂れたままでいるべきだろうか。どちらとも判断がつかぬまま束の間時が流れた。
 空気の流れさえ凍ったかのような室内に、微かな風が起きる。
 身を硬くする詞紀を、立ったまま見下していた空疎が腰を下ろし、杯を突き出していた。突然のことに、思わず目の前のそれを凝視する。
 美しい朱塗りの杯に、半ばまで満たされた透き通ったものはなんだろうか。水、ではなさそうだ。
「何をしている」
 全く動こうとしない詞紀に苛立ってか、空疎が促しとも問い掛けともとれる声を発する。その声に弾かれたように顔を上げたものの、状況の呑み込めない詞紀の手を取り杯を持たせる。
「飲め」
「…私が、ですか?」
「この場で貴様以外の誰がいるというのだ」
 何を当たり前のことを、と言外に滲ませながら空疎は手を離した。
 これ以上躊躇えば、本当に機嫌を損ねてしまう。そう思いながらあおった杯は微かに甘く、花の薫りがした。


 昔の夢を見た。その夢を、目を閉じたまま思い返していた。それは丁度、一年前の今頃のことだった。あの頃の自分は、本当に夫となる方のことを苦手に思っていたのだろう。ただただその厳しい物言いや眼差しを恐れ、いや疎んじられ玉依姫の血の神性を保つという役割を果たせないことに怯えていた。
 そんな浅ましいとすら言える詞紀の心中など、見透かしていただろう空疎があのような眼差しを向けるのは仕方のないことに思える。けれど、久方ぶりに見たあの瞳が胸に刺さった。
「空疎様」
 名を呼びながら、無意識に手を伸ばす。その手は微かに残る温もりに触れるだけだった。気怠く重い身を起こし、辺りを見回す。確かに見慣れた春香殿の寝所だが、いつも共に朝を迎え、温かく包み込んでくれる人の姿がなかった。
 慎重に起き上がり、室を出れば庭に立つ空疎の姿があった。気配に気付いたのか、振り向いた空疎が珍しく驚いた顔をする。それを見てほっとしたのも束の間、空疎の苦い顔に思わず立ち止まる。
 どうされたのですか、と尋ねるより早く詞紀の目前まで来た空疎が羽織をその細い肩に被せた。馴染み深い香りと温もりに包まれるととても安心する。
「貴様は我の妻たる自覚があるのか」
 夢で聞いたかのような言葉に身を竦めながら、未だに苦々しい表情のままの空疎の視線を辿り、詞紀は小さく声を上げた。考えれば寝所から着の身着のままで出て来たのだ。空疎が羽織らせてくれた羽織の下は、単衣一枚のみだ。庭先とは言え、到底外に出るような格好ではない。
「す、すみません!」
 顔から火が出そうな心地の詞紀が慌てて身を翻すより早く動いたのは、やはり空疎だった。妻の身体をすくい上げるようにして寝所に連れて行き、小さくなって恥じ入る詞紀を褥に下ろす。流れるような動作は素早く、何より詞紀の身を気遣い優しかった。
「申し訳、ありません…」
「全く貴様は母になる自覚があるのか」
 嘆息しながらそっと手を伸ばし、目立つようになった詞紀の胎を撫ぜる。優しい大きな掌は不思議な呪いのように、詞紀の心を落ち着けてくれた。
「…どちらに行かれていたのですか?」
「ん?」
「庭に出られていた時、風を使われていました。あれは移動のためでございましょう?」
「よく分かったな」
「私は風術のことは分かりませんが、空疎様のことなら、夫のことなら」
 分かります、とほんの僅かに照れくさそうに、けれど誇らしげに言う詞紀を愛おしげに見つめた後、ふと口の端を吊り上げて耳元に囁く。耳まで赤くなった詞紀に、着替えるように言い置いて去ろうとした空疎を詞紀が止めた。ほっそりとした指で袖を控えめに掴む詞紀の揺れる瞳に笑いかける。
「案ずるな。我はどこにも行っておらぬし、貴様を置いてどこかに行く気もない。
 着替えが終わったら呼ぶがいい。貴様を連れて行きたい処がある」
 素直に頷く詞紀に、温かくしろと重ねて言い室を出て行く。
 詞紀が声を掛ければすぐに分かるように、濡れ縁に腰を下ろし腕を組む。ふと先程、詞紀が引き留めた袖に手が触れた。
 不安にさせたか、と僅かに眉を顰める。他の誰も知らぬことだが、身籠ってから詞紀は不安定になりがちだった。他の者の前では気丈に振舞い、そのような素振りすら見せないが、新たな命を身に宿し、守り、育んでいるのだ。心乱れるのも無理のないことだ。空疎とて、最愛の妻との間に子が出来たことをこの上なく嬉しく思っているが、同時に懸念があるのも事実だった。
 だからこそ我が妻と我が子のためにしてやりたいと思ったことがあるのだが――裏目に出てしまった。
「我もまだまだらしいな」
 夫としても父としても。
 苦笑して見上げた空は高く、明け始めていた。生まれたばかりの新しい風に、繊細な撫子の花弁が、揺りかごのように優しく揺れていた。


 空疎が詞紀をそこに連れて来た時、日は半ばまで昇っていた。胎に負担を掛けぬよう気を配ってくれた夫に礼を言い、その腕の中から地に足を下ろす。空疎の指が指し示す先を見て、詞紀は思わず感嘆の声を上げた。
 徐々に明るさを増してゆく空を背に、どこまでも続いていくかのように一面に広がる、白に黄に紫に紅。時折、玉のような輝きが混じる。空疎に支えられ手を引かれ近付けば、それは花や葉に宿った朝露が朝陽を受けて輝く光だと分かった。
「今日は重陽の節句と言って、このように菊を愛でる日だ」
「そうなのですか…全く存じ上げませんでした。では空疎様は、毎年こちらに来られていたのですか?」
 空疎は風を用いてここまで詞紀を連れて来てくれた。ここはおいそれと来れるような処ではない。それ故か、荒らされることなく伸び伸びと咲き揃う景色はただただ美しい。このような素晴らしい風景を昔から知っていたのだろうかという羨ましさと、それを見せてくれたことへの喜びから漏れた言葉に空疎は首を横に振った。
「いや、我もこの場所を知ったのは一年程前だ。
 そもそも重陽の節句とはカミではなく、人の世の風習だ」
 意外な答えに空疎の方を振り返り、首を傾げる。博識な空疎が人の風習を知っていても何らおかしくはないが、それに倣うということが不思議なことに思えた。
「菊の花を愛でるのみでなく、酒に浸しその酒を飲む、或いは菊の花に溜まった露を飲み、あることを願う日でもある」
「あること、とは?」
 詞紀の問い掛けには答えず、一際美しい大輪の花を静かに手折り、詞紀の前に差し出した。赤子のように無垢な白い花弁に、ほんの些細なことで零れ落ちてしまいそうな、清らかな朝陽を浴びて七色に輝く雫。空疎の手に手を重ね、そっと花弁に口付けると甘い花の薫りがした。
「空疎様があの時飲ませて下さったのは、この菊の露だったのですね」
「何だ、覚えていたのか」
「今朝方、丁度あの時の夢を見たのです」
「…そうか。
 人はな、この日に菊の酒や露を飲み長く健やかな命を願うのだ」
 空疎の言葉を繰り返し呟き、一年前に自分に向けられた優しさの欠片と、今彼が与えてくれる愛情に涙が溢れた。
 玉依姫は御魂鎮の儀で魂を剣に捧げ、やがては娘に殺されるが宿命。長くは生きられないと、ずっと知っていた。
 けれど今、自分を優しく包み込んでくれる人が、剣から宿命から檻から解き放ってくれた。それはどんなに言葉を尽くしても表せないほどの喜びだった。
 そして空疎との子を身籠ったと知った時、心を満たしたのは、本当にこれ以上はないという程の喜びと、初めて覚えた自分の命の短さへの恐怖だった。
「我も貴様も、共に生き延びるために、多くのものを犠牲にした」
 現世を滅ぼす危険さえ犯した、神産巣日神は詞紀にこの世を託し命を落とした、風波は今自らの妻を抱く手で殺めた。たくさんの失われた命、払われた代償の中には、自分たちの魂の、命の欠片もあった。
 そのことが時に心を苦しめることがあっても、決して悔やむことはない。けれど――
「この子の行く末を見届けることも叶わぬかも知れぬ」
 詞紀の身体が大きく震え、空疎の胸元に縋る手がきつく握りしめられた。
「だが、先のことにそのように怯えてどうする。
 忘れるな。どのような宿命も、我と貴様なら乗り越えられる」
「…はい。私は、あなたとこの子のためなら、いくらでも長生きしてみせます」
 そう言って顔を上げた詞紀は、ここに咲くどの花よりも凛として、美しかった。
「ふ、その意気だ。さてでは我も負けてはおれぬな…」
「ええそうですよ、空疎様。お待ち下さい。今度は私が」
 先程、空疎が大粒の露を宿す花を選んでくれたように、と張り切る詞紀の手を空疎が掴む。驚いたように目を瞬かせる詞紀を引き寄せて、この世の何よりも美しく愛しい花に口付けた。
 喜びも、苦しみも、命も、皆でと――誓うように。



後書き
 二人の寿命については明言されていませんでしたので、私の勝手な想像です。ただそうだとしても二人で乗り越えて、子供と幸せに過ごして欲しいと思います。
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