空疎は霧の中にいた。自らの手すら見通すことの出来ない程の深い深い霧。視界は全て白で覆われ、今が現かなのかさえあやふやだった。 不意に背後に気配を感じ息を詰める。ゆっくりと慎重に振り向いても、目に映るのは濃い霧ばかりだったが、確かに何者かの気配があった。 いや、何者かではない、とても馴染み深い、間違えようのない気配だった。 目を細め、空疎は口を開き、彼の者の名を呟いた。 微睡の中にいた詞紀は、ふと聞こえた声に目を覚ます。 「…空疎、様?」 自らを抱く夫の名を呼びながら、夜の明けきらぬ薄闇の中、詞紀は目を凝らしその顔を見つめた。整った眉が、今は微かに歪められている。その様子は苦しげでもあり、悲しんでいるようにも見えた。 肩を抱く大きな手に手を重ね、息を呑む。まだ日が昇りきらない刻限とはいえ、初夏だというのにその手は氷のように冷たかった。 「空疎様」 焦燥に駆られながら再び名を呼ぶ。重ねた手を取り、祈るように両の掌で包み込む。 「………し、き」 「空疎様、良かった…目を、覚まされたのですね」 「…どう、した?何を、泣きそうな顔をしている?」 何かあったか、とどこかぼんやりとした掠れ声で言い頬に手を伸ばそうとして、自らの手が妻の小さな手に包まれていることに気付く。僅かに訝しげに目を細め、幾分はっきりとした声で問うた。 「詞紀、具合が悪いのではないか?手が熱い」 「いいえ、あなたの手が冷たいのです。それに…」 重ねた一方の手はそのままに、もう一方の手で、空疎がいつもそうしてくれるようにそっと触れた。 「…泣いているのは空疎様です」 伸ばした手の指先には、涙が朝露のように宿っていた。重ねた手が僅かに強張ったのが分かった。 「どうされたのですか?なぜ泣いておられるのです」 「………」 「空疎様、私はあなたの妻です。あなたに温もりを与えられる、唯一の者だと、あなたが言って下さったのです」 この手の温もりが、この心が伝わればいい。その一心で見つめる先で、空疎は口を閉ざしたまま、詞紀の手をほどいた。 「…空疎様」 詞紀の口から零れ落ちた声は、空疎の肩口に吸い込まれる。 空疎に抱かれる時、引き寄せる腕の力強さに、背に触れる掌の大きさに、溶け合う身体の温もりに、いつも包み込まれ守られているように感じる。けれど今は、その腕が、掌が、温もりが、縋るように心許なく思え、精一杯包み込めるようにと手を伸ばした。 「………風波の夢を見た。いや夢というより、夢の中に風波の魂が現れた、と言った方が正しいのだろうな」 我があの者の魂を違える筈がない、と静かな声が耳許に落ち、詞紀はただゆっくりと空疎の背を撫でた。 「…気付いていたか」 「はい、あなたが風波様の名を呼ばれたのが聞こえました」 そうか、と僅かな苦笑の気配と共に呟かれた後、続く言葉はなかった。 もしかしたら自分にどのように話すか、考えあぐねているのかも知れない。あるいはもう語るべきことはないということかも知れない。 どちらにせよ、詞紀が真に知りたいのはなぜか、ではなかった。 自分が、空疎のために、何が出来るか、だ。 それを問えば空疎はこの温もりがあればいいと答えてくれるだろう。 愛する者が傍にいる、それがどれほど心を支えてくれるかはきっと誰よりも分かっている。自分にとって空疎がそうであるように、空疎にとっての自分もまたそうであると、自惚れではなく思えた。 けれど空疎が温もりを必要としてくれるのは、詞紀の心の安寧のためでもあるのだろう。 「…風波様は」 「ん?」 「風波様は、何と?」 「………夢で我は深い霧の中にいた。ただ風波の気配を感じるのみで、声を聴くことはおろか、姿を見ることも叶わなかった。 案ずるな、たとえ相手が風波であろうと易々と害される我ではない」 背に回された腕が宥めるように撫ぜる。自らが傷ついていても、人のことを思う彼の優しさを愛しいと思い、そして切なくなった。 「ええ、存じております。誰よりもあなたのことを信じています。 …けれど」 一度言葉を止め、深く息を吸う。 「けれど空疎様は、風波様が夢に現れたことが悲しいのでしょう…。 風波様が未だに復讐に囚われているのではないかと、心を痛めておられるのでしょう」 僅かに空疎は息を呑み、温かい詞紀の身体を強く抱き締めた。 「………風波は、東風姫の元へ帰ったのだと、思っていた。あの時に、我の手で送ってやれたと…それが、兄として我があの者にしてやれた最後のことだと」 そう信じていた、と空疎は消えそうな声で呟いた。 あの時、というのが風波を討った時なのか、風波の亡骸を弔った時なのかは分からなかった。これから自分が口にすることが正しいのかも。 「空疎様。風波様が今も復讐に囚われているのかは私には分かりません。ですが、そうであるなら、きっと、あなたの導きが必要なのだと思います」 息を継ぐ間の静寂が恐ろしくもあった。この沈黙が空疎の心を傷つけてしまったことを示すようで怖かった。 「大丈夫です。弟を想い涙する方の心が届かないことなどありません」 いつの間にか、詞紀の瞳から涙が零れていた。身を離した空疎が頬に触れたことで、詞紀は自身が涙を流していることに気が付いた。 「申し訳、ありません」 辛いのは己ではないと、慌てて拭おうとした手を、空疎の手がやんわりと押し止めた。 「夫を想い涙する妻を咎める者もおらぬ」 そう言った唇が目尻に触れ、流れ落ちる前の雫を吸った。 「泣くな…とは言わぬ。詞紀、ただ頼みがある」 驚いたように一度目を瞬かせる詞紀が、はずみで新たに流れ落ちた涙が、愛おしかった。 「我はこれより術を用いて、再び風波と対峙する。今度こそ、あの者の魂を東風姫の元へ送ってみせる。 だから、我が目覚めた時には笑っていてくれ」 詞紀は躊躇いなく頷き、指を絡めるようにしっかりと空疎と手を繋ぐ。 「夢の中でも一緒にいられるお呪いです。怖い夢を見ては泣いていた私に、母様がいつもこうして下さったんです」 涙の残る頬で微笑んで言う詞紀に、自身もまたいつもの笑みを返す。口の中で呪を唱え、眠りに落ちる間際に繋いだ手に力を込めた。 空疎は再び霧の中にいた。相変わらず真白に染まった世界では、自らの存在すら不確かなものに思えてくる。だが―― 「流石は先代の玉依姫より伝わる呪いだな」 ふ、と笑い、手に残った詞紀の温もりを、いや詞紀と繋いだ手から伝わる温かみを握り締めた。 その手に風を集め、霧を払う。おそらくこの霧は、空疎自身ですら気付かなかった、いや認めようとしなかった、風波と再び向き合うことへの恐れの具現したものだろう。 それに気付けたのは、詞紀が自らの心の内を掬い上げ、寄り添い涙してくれたからだ。 立ち向かえたのは、詞紀が背を押し、共にいると手を重ねてくれたからだ。 全てが風に散った後、空疎の前には陽の光を受けて輝く湖があった。 「懐かしいものだな」 湖上を渡り小波を生む風の心地好さに目を細め、呟く。幼き頃はよくここで術を競い合ったものだった。 ええ、という声が背後から聞こえ振り向いた時、彼はとても穏やかに笑っていた。 空疎が目覚めた時、手には変わらぬ温もりがあり、目の前には安らかな寝息を立て眠る詞紀の姿があった。 「…まったく、貴様が眠ってどうする」 苦笑しながら呟き、起こしてしまわぬようそっと頬に手を伸ばす。 「だが…笑っていろ、という我の言葉を忘れてはいないところも含めて貴様らしいな」 良い夢でも見ているのだろうか、触れれば柔らかな頬には微笑みが浮かんでいる。夢の中で何があったか、詞紀に語って聴かせたいと思った。しかし触れた熱が常より少し高いように感じるのが気に掛かり、近頃眠りが浅いようであることを思い出す。まだ日が昇りきるまでには間があり、眠っているのなら起こさぬ方がいいだろう。 繋いだ手はそのままに、もう片方の腕で包み込むように抱く。夢の中にいながらもそれが分かったのか、仔猫のように詞紀は空疎の身にすり寄った。目覚めている時には中々見せない妻の甘えた姿に、空疎は満足げに頷く。 「貴様が目覚めたら、我が語って聴かせてやる。 だから今は、我の腕に身を委ねて眠るがいい…」 囁きながら瞼に口付け、髪を撫ぜる。手にある温かみが心地好く、そういえば手を繋ぎ合ったまま眠るのは初めてだったと思い至り、まるで童のようだと笑いが零れた。 微かに耳に届く詞紀の息が子守歌のようで、ふと思いつく。 「夢の中で語るのも、良いかも知れぬな…」 眠りに誘われながら、引き寄せた手の細い指に笑んだ唇で触れ、目を閉じた。 詞紀はきらきらと輝く湖を、目を細めながら見つめていた。 この湖はきっと空疎の故郷にあったという湖だろう。かつて夫から教えてもらった通り、どこまでも澄んで美しかった。空を渡る鳥の声や、魚の跳ねる音、風にそよぐ草木の囁きが耳に優しい。 ここは空疎の夢の中だと先ほどそう聞かされた。それは空疎が術を唱える際、息の触れるほど近くにいた故か。あるいは繋いだ手が夢さえ繋いでくれたのか。 頭の、どこか冷静なところでそう考えながら、空疎の温もりを宿す掌を胸に当てた。胸の鼓動、昔はただ脈打つだけに感じていたそれが、今は高鳴っているのが分かる。満ちているのは喜びであり、驚きであり、恐れであり、なによりも逢いたいという想いだった。 「空疎様………」 この身に納まりきれず、この胸すら突き破ってしまいそうな気持ちを静めるように撫で下ろす。僅かに震える手は臍の辺りで止まり、詞紀はそっと目を閉じ、吐息のような微かな声で呼んだ。 「…空疎様」 不意に手の温もりが確かなものへと変わる。細いけれど自分のものと違い、大きく骨張った手。それがどんなに優しいか温かいか、誰のものか、見なくても触れるだけで分かる。 「空疎様!」 「我を呼んだか、詞紀」 名を呼ばれただけで嬉しくて、気付けばその胸に飛び込んでいた。 「良かった、お伝えしたいことがあったのです。一刻も早く、お話したいことが…!」 しっかりと抱いてくれる腕の中、溢れる感情のまま言い募ろうとすると、唇を塞がれた。喜びを分かち合うように、驚きを宥めるように、恐れをとかすように、口づけられる。深く長いそれに吐息ごと奪われた詞紀の身から力が抜け、立っていられなくなった。 「…我も貴様に語りたいことがある」 だから落ち着け、と常の冷笑を浮かべ優しく言い、自らに全てを委ねる細い身体を支えながら、濡れた唇を指でなぞる。 上気した頬と潤んだ瞳で頷く妻を抱き直し、空疎は静かな声で語った。夢に現れた風波のことを。互いの譲れぬ想いのために争い、兄に命を絶たれた弟の伝えた言葉を。 それは死してなお復讐に囚われた者の、尽きぬ怨嗟の声ではなかった。 ただ兄を慕う弟の、その幸せを慶ぶたった二言の言祝ぎだった。 「風波様が…」 「ああ」 「…嬉しいですね」 「ああ…だが、慶事の祝いも時期を逃すと些か間が抜けて見えるものだがな」 皮肉げな空疎らしいと思える言葉に、それとは裏腹な優しげな響きに、詞紀は小さく声を立て笑った。あの冬から、二人が夫婦となってから、もう二つも季節が廻っている。祝言の祝いなら確かに遅いと言えるかも知れない。けれど風波が祝福してくれただけで充分だと思えたし、空疎にとってはこの上なく嬉しいことなのだと声を聴くだけで分かる。 それに何より―― 「風波様は時期を逃した訳ではございません」 空疎が僅かに身を離し、真意を図りかねる、という顔で詞紀を見た。聡明な夫の滅多に見れない表情を見つめながら、詞紀はやわらかな、どこか大人びた微笑みを浮かべた。 「神産巣日様にお会いしました」 自分のためにその命を犠牲にした創世の女神は、ここが空疎の夢であることと、自らと風波がほんのひと時黄泉より反ったことを伝えた。 涙が溢れるほどの感謝の想いと、震えるほどの罪悪感に言葉を失った詞紀に、彼女は母のように優しい眼差しで言って聞かせた。 あれは自らが選んだことだと、だからお前が気に病むことではない、と。 「『お前がそうやって泣いてしまえば、お前の夫の風が我が身を切り裂きかねない、せっかく黄泉国にて安楽に過ごしているというのにそれは御免だ』とも仰いました」 そう愉快そうに笑う女神の様子を思い出す。そうやって心を軽くしようとしてくれる優しさに夫と同じものを感じくすりと笑った。 「何を当たり前のことを…。我は我が妻に涙を流させる者を、いや貴様が我を想って流す涙以外赦すつもりはない」 きっと呆れたように笑うだろうと思っていた空疎に思いの外真剣な顔でそう言われ、思わず俯く。頬を赤くした詞紀の頤を捉えて仰のかせ、空疎は続きを促した。詞紀は気持ちを落ち着かせるように目を閉じ深く息をして、震える唇で神産巣日神の最後の言葉を告げた。 「そうか…」 耳許に落ちた声はとても静かだった。強く抱き締められた腕の中、空疎の胸の鼓動だけが響く。しばらく互いに何も言わず、ただ互いの温もりだけを感じていた。 「確かに風波は時期を逃した訳ではないようだな」 ややあって詞紀の身体を気遣うように腕を緩めた空疎がぽつりと零した言葉に、詞紀はええ、と頷いた。 「だが矢張り、間の抜けたことに変わりはないな」 思いも寄らぬ言葉に首を反らし空疎の顔を見上げた詞紀に、いつもより幼い笑みを返し言った。 「我がまだ知らぬことを言祝がれても通じる訳があるまい」 「誰よりも慕う兄上の慶事に、居ても立ってもいられなかったのですよ」 慈しむように目を優しく細める詞紀の胎を撫で、空疎はひとつ息を吐く。 「何を他人事のように…。我にとって、ではない、詞紀。 我と貴様にとって、この上なく目出度いこと、であろう」 その言葉と、そっと落とされた口付けに応えながら、自らに触れる空疎の手に手を重ねた。 この世の母たる女神は言った。 我が子と、お前たちの子の行く末を楽しみにしている、と。 最愛の者の元へ帰ったカミは言った。 かつて再会した時と同じように、兄の前に膝を付いて。 おめでとうございます、兄上。 どうか、御幸せに、と。 そう言祝ぎ面を上げた彼の瞳は、遠い昔のように真っ直ぐで穏やかだった。 後書き 書く時に色々と悩むことの多い話でしたが、空疎様の弱さをどこまで見せるのか、という点が一番難しかったです。 イメージと違う、と思われたら申し訳ありません。 back |