「詞紀」 優しく名を呼ぶ声と共に、目の前に手が差し伸べられる。すらりとして美しい指に、大きな掌。その手が、自分を待つように軽く広げられている。 「ありがとうございます、空疎様」 「我らは夫婦なのだ。いちいち礼を言わずともよい」 微笑みながら手を重ねれば、苦笑しながらもしっかりと手を握られる。それが嬉しくて、繋いだその手をぎゅっと握り返した。 季節は春。降り注ぐ日差しは温かで、天を仰げばふんわりとした色合いの花の向こうに、穏やかな青空が見える。耳を澄ませば木の枝で羽を休める小鳥たちの囀りが聴こえてくる。自然と心が浮き立つような、麗らかな春だ。 その中を、詞紀は空疎と共に旅していた。季封から幽世への、玉依姫と季封を因習に縛りつけていた剣を、打ち壊すための旅だ。それが如何なる術なのか、果たしてそれが叶うのか、緊張や不安が心にないかといえば嘘になる。 けれど、こうして手を繋ぎ合い、共に往く愛しい人の温もりを感じれば、それらは淡雪のようにとけて消える。 「ありがとうございました、空疎様」 詞紀はもう一度礼を言い、その温もりに名残惜しさを覚えながらも手を離そうとした。もう三度目にもなる幽世への往き道は、人里離れた山の中を通る。空疎の案内で霊道を使ってはいるが、やはり山道に違いはなく時には険しい難所もある。今も些か急な勾配を、空疎の手を借りて登りきったところだ。 「…空疎様?」 詞紀は小さく首を傾げて、その顔を見上げた。空疎は答えずに、難所を越えたばかりの、なだらかな道を歩き始めた。詞紀の小さな手は未だ空疎の手の中にあり、引かれるように一歩遅れて歩き出す。 その歩みは、季封で詞紀の散歩に付き合ってくれるときのようにゆっくりだったので、ほんの少し足を速めるだけで肩を並べることが出来た。改めてその横顔にどうされたのですか、と問いかけようとして、それよりも早く口を開いたのは空疎だった。 「我が妻は存外旅が好きなようだからな。はしゃぎすぎてあちこちにふらふらと行きかねん。 このような山中ではぐれられても事だ。ならば夫である我がしっかりと繋いでおかねばなるまい」 つらつらと淀みなく語られた言葉に、詞紀は二、三度瞬きをして、それからくすくすと笑った。慎み深く右手で笑んだ口許を隠しながら、左手は空疎の言葉通りに繋ぎ止めるようにしっかりと握られている。 「……空疎様、それは杞憂というものです」 力強く、けれど、痛みを与えぬようにと優しく包む手。 その手から、どうやって逃れようというのか。 「確かに私は季封の外が珍しく、旅も好きです。けれど、だからといって、はぐれたりなどしません」 笑んだまま、繋いだ手に僅かに力を込めると、より確かになる温もり。 どうしてその手から、逃れようなどと思うものか。 「“このままどこまでも空疎様と旅をしていたい”」 そう思ったのは、この春の始まり、幽世から季封への帰り道だった。心の片隅で夢見た、大切な人との自由な旅。 「“今ここで時が止まって、ずっと二人でこうやって旅を続けられればいいのに”」 どうすればいいのか分からないまま、終わりに向かい止まることのない時の中で願った、冬の淡雪よりも儚い願い。あの時、この左手は醜く赤く染まっていた。 「そうとまで思ったこともあるのですよ? …だから、あなたのお傍を離れようとは思いません」 そこまで言って、不意に恥ずかしさが込み上げてくる。熱の集った、おそらくは朱く染まっているだろう頬を誤魔化すように前を向いた。 「……確かに、杞憂だったようだな」 頬と同じく熱い耳に、微かな声が届く、と同時に繋いだ手がほどかれた。詞紀の手が、空疎の手を追うように動く。 「詞紀」 大きな掌が、小さな掌にぴたりと合わさる。長い指が、ほっそりとした指に絡まった。 「…はい、空疎様」 「……我も、同じだ」 何が、とは言わない空疎に訊き返そうとはせず、詞紀も同じように指を絡めた。 今しばらくは続く、この二人きりの旅路の無事と幸福を、空疎と繋ぎ合い絡め合った手で祈る。 そして、もうひとつ。ほんの瞬きほどの間でもいい、少しでも長く、こうして二人きりで歩けるようにと、心の中で強く思った。 後書き FD発売前に春のシナリオで捏造してみました。早く夫婦がいちゃいちゃしてるところが見たい!!という気持ちを込めて書きました。 back |