また無駄であったか、と空疎はため息を吐き書物から顔を上げた。 傍らには既に調べ終えた書が積まれ、山を成している。が、未だに望む答えは見つからない。 無理もないとも言える。元々この書物は空疎が己が目的を果たさんが為に蒐集し、方法を見出すことが叶わなかったものなのだから。 だが求めるものが変われば、またそこに至る方も変わるはずだ。そう考え、とうの昔に調べ尽くしたはずの書物を調べ続けていた。 冬の夜の蔵は空気ごと冷え、灯も点さない室は殊更に凍てつく。世辞であろうと調べものに向く環境とは言えず、カミである自分であればこそ、このような場に一昼夜籠ることが出来るというものだ。人の身であれば早々に身体を悪くするだろう。 そこまで考え、自らに最も近しい者を、昨夜交わした言葉を思い出していた。 笑っていた、おかしな方、と。 死んでしまう者の身体の具合など、どうでもいいではないか、と、嗤っていた。 その笑みは、言葉は、強く空疎を苛立たせ――詞紀が去った後、彼の足は蔵へ向かった。 求めたのは、オニを殺す術ではなく、オニを宿した詞紀を救う術。 そうして今以て手掛かりのひとつも掴めずにいた。 唯一の心当たりもまた、大きな問題がありまさしく最後の手段と言える。神産巣日神を頼り、勾玉の効力を失わせる。だが、我が子たる現世の滅びすら認めた女神だ。こちらの願いを聞き届けるという保証はない。 何よりも、再びオニを世に解き放つなど、選べる訳がないのだ。 自らを罪人と言うあの女には――。 黙々と古書を漁る内に鎮まったはずの苛立ちが再び蘇る。所詮ここに答えはないのだろう。かつて求めたものにも、今乞うているものに対しても。 苛立ちが虚しさにすり替わる間際に、ふと声が聞こえた。呼ばれたような気がした。 ふらりと立ち上がり、導かれるように歩き出す。その先に、乞うているものがある、そんな気がした。 空疎は繰り返される言葉を、ただ黙したまま聴いていた。 声はそう大きくはない。それどころか音として夜気を震わせることすら稀で、多くは唇のみで綴られた言葉だった。 この声ともいえない声が聞こえ、呼ばれたような気がした。 「やはり貴様も、心の底ではそう望んでいるのだろう」 額に貼り付いた髪を払い、そっと触れると随分と高い熱が掌に伝わった。 空疎は僅かに目を細め、褥に横たわる詞紀を見つめた。熱に身を蝕まれ魘されながら、ただひとつの言葉を繰り返していた。 またひとつ、言葉が零れ落ちた。 助けて、と。 それは空疎の知らない、ひどく幼い、寄る辺ない声だった。 「…何故貴様はそれを心の底から口にしようとしない」 低く押し殺した声には苛立ちが滲む。 それに返るのは空疎の望むものではない、繰り言の言の葉。 救いを求めるのは詞紀の封じ込めて来た願いであり、贖う時を待つのもまた本心であることを空疎は知っていた。けれど詞紀自身が認め、口にするのは、口に出来るのは後者のみであることも。 「だが貴様は今、確かに助けを求めている、それも幾度もだ。たとえうわ言であろうと無碍には出来ぬな。 我が妻となる女がそれほどに望むのなら」 一度言葉を切り、口の中で小さく呪を唱える。詞紀の額に当てた掌が淡く輝きその身に光が染み込み、荒かった息が少しだけ治まった。その様子を見て安堵の息を吐き手を離すと、続きを口にした。 「我が貴様をさらってやろう」 囁くように、とても静かにその声は紡がれ――そしていらえはなかった。 術がよく効いたのだろう、先ほどより幾分穏やかな顔で詞紀は眠っている。その寝顔もまた、空疎の知らない幼けないものだった。 まったく、普段と違い素直そうな顔をしているかと思えば――とんだ頑固者だ、胸中に広がる苦さを感じながら空疎は思う。我ひとりしか聴く者のない、単なるうわ言だ。何を言おうと、望もうと、願おうと咎め立てる者などいないというのに。そう、たとえ詞紀自身だろうと。 「そもそも我が本当にそのような愚かな真似をすると思っているのか?」 不意に空疎は口元を冷笑の形に歪める。 いつか言った通り、詞紀に掛けられた、いや詞紀が自ら掛けた呪いは自らにしか解けない。 その身をさらって季封から逃がしたとしても、その心が罪の檻から逃れ得ることはない。いや、それどころか償う時を待ち望んで生きてきた詞紀の心は、逃げるということに耐え切れず、壊れるだろう。 「…意味のない」 ただ死ぬ為だけに生きる玉依姫という名の人形に戻るのだ。 「………それでは何の意味もない」 それは自らの手で詞紀という存在を殺すことに他ならない。 「意味がないのだ」 望まぬ末から背くように、強く目を閉ざし口を引き結ぶ。先刻自分が感じた、乞うべきものがあるという勘は外れたようだった。 思う以上に落胆している自身が滑稽に思え、嗤った。 閉ざした瞼の向こうに光を感じる。空が白んできたのだろう。 時間が足りぬ、と思う。だがそれより強く、諦める訳にはいかぬ、と心の内から声がする。 深く息を吸い吐き、目を開く。 僅かに射し込む陽の光に照らされる詞紀の顔は―― 「まったく罪のない顔をしおって」 赤子のように無垢だった。 僅かに胸が痛む。自分は自身の望みの為に、この娘を傷付けることになる。 その胸底に繰り返された言葉があるのならば、その心に刃を突き立ててでも顕わにしなければならない。 それは必要なことだ、だから―― 「我を怨んでもよい」 だから、死ぬな。 死なせはしない、と思いながら零れた呟きは祈りにも似て――。 応えを求めるように頬に伸ばした掌に触れた温もりは熱く、慕わしかった。 後書き ブログでの空疎様の感想でも書きましたが、詞紀がうなされながら助けて、と繰り返していた時、もしもその時に空疎様に届いていれば…と思って書きました。 back |