一滴の音月が雲に隠れていた。今宵は満月の筈が、厚い雲に覆われて光は地上に届かない。 己の手すら見えない。その闇の中、進んで行く。見える導はない。ただ聴こえる導がある。 そう大きな音ではない。屋外だから尚更音は拡がり、拾い辛い。 森の木々に囲まれた小道を歩いて、歩いて開けた場所に出た。 遮蔽物だった木が無くなったために、夜風が、音が直接に届く。 頬を撫でる風が、束ねていない髪の毛を揺らす。 哀しく聴こえる三味線の音が響く。 「…あ」 思わず漏れた声に慌てて口を塞ぐ。聞こえる筈はないと思うが、この奏でを僅かでも邪魔したくない心がそうさせた。 口許を覆っていた手を降ろし、奏者の方を見る。 とはいえ依然明かりのない中だ。姿はおろか人影も捉えられず、方向とおおよその位置だけしか分からない。 しばらく立ち尽くして、一歩踏み出した。 僅かな躊躇いの後、歩み始めた影は息を、気配を殺すように慎重に近付いて来る。 その動きは中々見事なもので、草を踏み分ける音も僅かだ。 (並の者ではない、な…そして俺を知る者でも、俺の知る者でもない) 影は得体の知れぬ者と言っていいだろう。それにも関わらず弦を鳴らす手を止め、相手を警戒する気は起きない。 ほどなくして隣りに座り込む。声をかけて来るでもなく、ただ黙して、そこに居る。 伝わってくる気配は静かで、明日が戦だと知らぬ者の様だ。 (…否、違うな) 知っている。確実に、戦というものを。思考とは別に、曲を奏で続ける手が最後の一音を鳴らす、その直前。 「ふふ…」 そっと零れ落ちる。雫の様な笑い声。 違和感を感じて手が止まり、末の一音を欠いて曲が終わる。 (笑ったのか…?) 三味線の音のみが支配していた空間に不意に静寂が訪れる。 「あの、申し訳ありません。お気に障りましたか?」 それを破ったのも同じ人物だった。 急に止んだ演奏を自分が上げた笑い声のせいだと思ったのだろう。不安げな問い掛けの形をした謝罪の言葉がした。 その言葉に目を向けると声の主が体ごとこちらを向いているのが分かる。 相変わらず雲は月明りを遮るばかりで顔は見えないが、不快だとでも告げれば深々と頭を下げそうな様子だ。 「…別にそういう訳じゃない。……だが」 悪意など欠片もない声に不快だと思った訳では無い。 「だが、何故笑った?」 「…いえ、不思議…だと、そう思ったのです」 捉え方によっては婉曲な非難の様な言葉に躊躇いがちな答えが返る。 「明日には戦場という地で、かように静かな演奏をお聴き出来るとは…」 不意に言葉が途切れ、否定する様に首を横に振る。 「……実は、弟達がこの戦で初陣を飾るのですが、どうしても心配で無理を言ってついて来たのです。 ですが、その…陣が少々賑やかで落ち着かなくて陣を抜け出て来てしまったのです。 心を静めるつもりだったのですが、中々上手くいかず… そんな時に微かに音が聞こえて、その音を探してこちらに辿り着いたのです。 御無礼だとは思ったのですが、隣りに失礼させて頂きました」 そこまで語り、今更とは思いますがと小さく頭を下げる。 「気にしてはいない」 「ありがとうございます。 …貴方の演奏を聴いていたら心が自然と落ち着きました。 そこで気付いたのです。普段の私ならこの様な振舞は出来ないだろうということに。 それがとても不思議に思えて、笑ってしまったのです。ふふ…落ち着いたつもりが浮かれていたのかも知れません」 再び小さな笑い声がする。 「あんたは泣きそうに笑うんだな」 目を細めて、呟いた。 「…泣きそう、ですか?ふふ、弟達の事は確かに心配ですけれど幼子ではありません。 いくら不安だからと泣いたり致しません」 「そうか…下らない事を言った。すまん」 「いいえ…でも、もう一度演奏を聴かせて頂けますか?」 「ああ構わん。だが息を殺す必要はない。逆に気が散る」 「すみません」 「その言葉も不要だ。元々俺が勝手に弾いていただけだ」 ほんの少し申し訳なさそうな答えに、素っ気無く返し音を出す。 それから互いにぽつりぽつりと言葉を交わす。話の合間には音色と風に草が揺れる音が耳に届く。 当然二人分の静かな息の音も。 そうして過ごしている内に雲が薄くなったのか、辺りが僅か明るくなる。 「月明りが出て来た。これであんたも帰り道が分かるだろう」 話をして分かった事だが、音を便りに進んで来た為に道が分からなくなっていたらしい。有り体に言えば迷った訳だ。 もう少し明るくなれば帰れると言ってはいたが。 それが真実なら行ける筈だろうと声を掛けるが答えはない。 気になって手を止め、右側を見れば 「…そういう事か」 安らかな寝息をたてて眠る女の姿。 結われずそのまま髪が流されているのは就寝前に、ほんの少し抜け出すだけのつもりだったからだろう。 この様に人と会う事になろうとは予測もしていなかった筈だ。 ましてや迷子になり外で眠る事になろうとは。 着ている着物は厚い生地の物ではなく、そのまま眠るのは如何にも寒そうだ。 少しの逡巡の後、自分が上に着ていた羽織を起こさぬ様そっと肩に掛けてやる。 (段々と口数が減っていた事を警戒すべきだったか…眠らぬ様に俺に話し掛けて来ていたのだろうに) 肩に掛かった重みの為か、意識の無い体が傾ぐ。 「迷った挙句に眠りに就くとは幼子の所行だな」 肩に重なる暖かさが心地良く微かに笑いながら言う。 「……ふ、ふふ…」 その言葉に抗議するように声がする。 後に続く言葉はなく、目が覚めた訳ではないようだ。 その事にどこか安堵しながら心中でどうするかと呟く。 語らう相手もなく、肩に預かりものをしている今の状態では三味線を弾きようもない。 (仕方がない) 何もすべき事がない今、己に近寄って来る睡魔を払うのは難しい、と判断して目を閉じる。 姿を顕した月の明かりに寄り添う様に眠る二人の姿があった。 不意に右肩から暖かさと重みが離れ、代わりに薄い温もりが両肩から背中に掛かる。 まだ眠りの中にある意識が、ほんの少しだけ周囲を感じ取る。 「どうか御武運を」 労る様な声がする。 最後に謝罪の言葉を紡いで気配は離れていなくなった。 それからどれ程経ってからか目を開いた。 「…やはり行ったか」 浅い眠りにあった自分が聴いたのは夢ではなかったようだ。 去る間際にすみません、と女は言った。 肩を貸したことか、羽織を掛けてやったことかは知れないが、哀しげに。 「或いは、偽りを口にしたことか」 どこからどこまでかは知らないが、女は真実以外を口にしていた。 (少なくとも声を上げて笑った時は) もしかしたら偽りを吐く時の癖かも知れない。 (否、あれは笑っていたのではないか) 声を思いだす。 聴こえる音は、鈴を転がす様な。 その裏にある響きは、嗚咽が堪え切れずに漏れた様な。 静かな笑みが耳に蘇る。孤独な慟哭として。 その真意を知りたくなるが、弟達がこの戦に出陣するというのも偽りで本人も姿を表す気はないだろう。 名も知らぬ、味方でもない者を探し出すのは難しい。 訊いたところで偽名を名乗らたるだろうが。 「明るくなれば帰れると言うのは真実だったようだな」 案外迷ったというのも真実かも知れない。言われた言葉全てが偽だった訳ではない。 それを思うと可笑しくなり笑った。 考えが正しければあの女は戦に出はしないものの観ている筈だ。 戦を無視して探すことに専念すれば或いは…とも思うが苦笑して止める。 「ああ言われて働かぬ訳にもいかないか」 (どうか御武運を…) 祈りの声。 「あんたもだ」 言葉を返し、一音響かせる。 「幸いを」 その音は、あの哀しい笑い声に途切れた曲の最後の一音だった。 久々に小説を書きました。 しかも初の長編です。 元親の性格、口調も掴めていないので偽者くさいです。 あまり『反骨』、『凄絶』、『上等』って言いません(笑) 歴史や登場人物も捏造いっぱいで進んでいく予定すが、楽しんで頂けたら幸いです。 |