留客雨日が落ちかかり、空が地が赤く染まる中、三味線が奏でられる。 静かな音が生まれ満ち、消えていく。 その連なりがひとつの曲となる。 まるで昨夜の再現の様に元親は曲を奏でる。 戦の前後には似つかわしくない静かな曲だ。 昨夜は誰に聴かせるでもなくただ弾いていたが、今は違う。 届いていればいい、聴こえていればいいと思い奏でる。 (この辺りだったか…) あの女が現れたのは。 邪魔にならないようにと気配まで殺して。 そうかと思えば、互いが誰かも判らぬ状態で躊躇いなく隣に座った。 (判っていなかったからこそ出来たことだがな) 女は敵だった。姫若子が如何なる者か、と命じられて来た。 互いにそうと知らぬからこそ、元親は曲を奏で女はそれを聴き、言葉を交した。 その最中に敵だと気付いたのだが、元親には女を害する気は無かった。 女も元親の寝込みを襲う事は無かった。 (当たり前か。迂闊に牙を剥けば危うくなるのは女の方だ) それを何より分かっているのはあの女だ。 故に元親が目覚める前に姿を消したのだろう。 だが再び、弓を手に元親の前に現れ、そして助けた。 (何故だ?何故そのような無茶をした?) 訊きたいと思いながら、同時に叶わないと分かっている。 問うならば女に三度見えなければならない。 元親はそれを望むが、女にとってはこの上なく危険な事だ。 それでもと思い、昨夜元親が唯の奏者で女が唯の聴き手であった時の曲を弾く。 決して手を止める事は無い。 最後の一音まで。 途切れる事なく聴こえていればいい。 一曲終えると体から力を抜き、天を仰ぐ。 未だ空は朱く、夜は遠い。 (我ながら随分と女々しいものだな…) 暗くなり、互いが誰か判らなくなれば… 願望であり、錯覚だ。 それに女が付合う義理は無く現れる筈もない。 「…ふっ」 己の女々しさが滑稽に思え笑いが零れる。 懐から布に包まれた扇を取り出しそっと岩の上に置き立ち上がる。 影が長く前に伸び、先を進んでいく。 「元親様!」 声が名を呼ぶ。聞こえる筈の無い声が叫ぶ様に。 (何故だ…) 「何故この様な所に、御一人でいらっしゃるのですか!?」 先を行く影が立ち止まる。草が鳴る音が近付き別の影が重なり、足下の影が一層暗くなった。 (何故、今現れる?) 望んだのは確かに己が心。 ありはしないと否定したのは己が考え。 それを肯定したのは忘れて欲しいと願った声。 「…何か、あったのですか?」 重ねて問う声がする。昨夜、言葉を交した近さで。 「あんたが現れた所であの扇を見付けた。 あれはあんたの物か?」 「…はい、確かに私の物です。 ですがそれが何か」 「その扇を返しに来た」 「…っ……!?」 言葉を遮って言えば短い呼気と共に、とさ、と何かが地に着く音がする。 「……それだけの為に」 振り返れば地に膝を着き、項垂れる女がいた。 元親の足下でなる草の音にゆっくりと顔を上げる。 「……あの扇が何か、解っておられるのですか?…価値など、ない唯の舞扇です」 ぼんやりとした瞳が元親を映し、酷く心許無い声が落ちる。 力無く落とされた肩、地に投げ出された手の甲が見える。 左右どちらか或いは両の手の平に、扇に付いた血を流した傷があるのだろうか。 「もし、それが罠で、私が声をかける代りに矢を射ようとしたならっ…!」 瞳が細められ、空ろだった顔に感情が表れる。 「御忘れですか!? 私は敵です!! その事を…決して、忘れないで下さい!」 強く、怒りを込めた言葉が吐き出され、瞳の光が元親を射抜く。 (…確かにあんたは敵だ。だが) 「何故助けた?」 虚を突かれた様に一瞬瞳が見開かれる。 「…な…ぜ?」 呟きの後、再び目が細められた。 「…違い、ます。そう、それに御忘れ下さいと」 「あんたは戦場でもそう言ったな、だが忘れるなとも言った。 あんたの願いはどっちにあるんだ?」 今まで身に纏っていた怒りは何処に行ったのだろうか。今は微かに震えながら、地に縫い止められた様に動かない。 「忘れろと言うなら、あんたが俺を助けた事も、敵である事も忘れてやる。 忘れるなと言うなら、敵だと言う事実も、助けられたと言う事実も覚えていよう」 「ち、違います、そのようなことでは…」 緩慢に弱々しく首を横に振る。半ば以上閉ざされた瞼の奥にある瞳は揺らがない。 「私があの時戦場にいた事は御忘れ下さい。 私が敵だと言う紛れも無い真実だけは忘れないで下さい。 私の願いはそれだけです」 「恩を忘れ、己が身を守る為に必要なことのみを覚えていろと?」 「…いいえ、全ては私自身の為です。 元親様も察しておられのでしょう?私の主君がこの戦に中立であろうとしている事を。 その様な時に、家臣たる私が長宗我部氏の御嫡男を助けたなどあってはならない事なのです。 ですから、どうか御願い致します」 髪が地に着く事も構わずに頭を下げる。 敵に向かい躊躇いもなく首を晒す。 「主に逆らう事と知りながら、何故助けた?」 答えが返る事は無いのだろうかと思いながらも、問う。 この女の真意は何故こうも計り難いのだろう。 笑いながらその声は悲しげで、敵だと言いながら元親の身を案じる。 敵だと女が言う度に、そうとは思えなくなり、心の内を知る為の問い掛けが口から出る。 「あの時、何を思って助けた?」 「…弟達が初陣なのです。元親様と同じ様に… あの時、私は元親様に弟達を重ねていたのです。 …ふふ、愚かな女ですね。分かっていた筈でしたのに……」 悲しげな声で笑う。伏せられたままの顔は本当に笑っているだろうか。 「…悔いているのか?」 問えば女は顔を上げる。涙のない瞳で元親を見上げた。 「もしも戻れるとするならば」 その心をあの時に飛ばしているのか、その眼は元親を通り過ぎる。 「幾度でも同じ事を繰り返します」 今までと違い、声に出す事はなく笑みを浮かべる。 穏やかでありながら、譲ろうとはしない強い意思を表す瞳だった。 「そうか…ならば俺は何度忘れろと言われようと忘れぬ」 「何故ですか?私は元親様を御助けした訳ではないのですよ」 (何故などと口にしなければ、お互いにこれ程長居する事も無かっただろうな) 女が現れ何故と問い掛けた時、まだ日は半ば以上が空にあった。それが今や沈み残照を残すのみだ。 その事実に苦笑する。 女がそれを口にするのは律義さゆえだろうか。 己が何故と問うのは何だろうか。 「あんたは誰の命でもなく自分の意思で矢を放ったのだろう。 ならば戦場で俺を救ったのは唯の女だった。 俺はその恩も、その女も忘れない」 この忘却を拒む所以は何だろうか。 女が諦めた様に首を横に振った。 残照すらも消え去り、代わりに熱を持たない月と星が空にある。 元親は一人、三味線を奏でる。 昨夜と夕刻座っていた岩はまだ昼の陽の熱が残り暖かい。 昨夜と同じ様に三味線のみを持って。 夕刻はあった扇は無い。今は本来の持ち主である女の下にある。 そしてその女は今はもういない。 帰ったのだ、弟達の所へ。 (強行軍などしていなければいいがな…) 遠くにいるであろうあの女を心配する様な事を思いながら苦笑を浮かべた。 「否、違うか」 あの女ではない。 『、です。元親様』 元親の言葉に首を横に振った女はそう言った。 『何故名乗る?』 『心苦しかったのです。私は元親様の御名前を知っていながら、名乗れなかった事が。 私が勝手に名乗っただけですので忘れて下さって構いません』 『…、か。忘れぬさ、恩人の名だ』 教えられたばかりの名を呼びそう言えばは笑った。 はい、どうにか主人公が名乗れました。最後の最後ですが… ようやく元親の初陣が終わりました。そこまで長くは無い筈なのになんだろうこの矛盾だらけの話は。 でも心が赴くまま書いているのである意味満足です。 しかし、こうと思った通りに絶対進まず大抵長くなるのは何故でしょうか。 計画性が皆無なためですね。実はこの話は2話になる予定でしたし…2倍。 実はこの話は最初中々話が進まず、投げかけていました。 ですが、あるお方の小説を読んで士気上昇して書き上げました。 書ききれたことも、続きを書けるのもそのお方のおかげです。 ありがとうございました。 <次回予告>という名の追い込み 次は主人公の所の家庭の事情を覗き見たいと思います。一つに纏めるつもりですが、出来るでしょうか? back |